楽しみに待っていました!素晴らしい動画です!ここが本当に安倍晴明のお墓だと思えてきますね。調査の積み重ね、隊長の素晴らしい考察に頭が下がると同時に、現代まで守り続けてきた山村家、地元の方々のことを思うと、鳥肌が立つほど感動しました。単なる歴史ロマンという言葉で片付けてはいけないと思いましたし、名もない一般の人々の営みも含めて「歴史」なのだと、その重みを感じました。現代を生きる我々もその歴史を担う一端なのだと思うと、何か大きな責任感を感じるというか・・・そんなことまで考えさせられた動画でした。ぜひ行ってみたいです。
大河ドラマに晴明さん出てますから何だかタイムリーな動画ですね。京都の晴明神社はよく行きますが全国にお墓があるのは知らなかったです。浪漫を感じる素晴らしい動画でした!いつもありがとうございます😊
冒頭、奥様と日帰り温泉でお風呂分かれて入浴中の映像……
「隊長さんの手かよ!!」と、思わず突っ込んでしまいましたww 私、女性ですけどね😅
いつも思うんですが、本当に素晴らしい取材と構成で凄いな〜って。
こんなCZcamsなんかで(失礼)垂れ流していい映像じゃないです。
一つ一つ情報を拾って、だんだん繋がっていって、見ていていつもワクワクします。
本当にありがとうございました。またこれからも勝手に楽しみにさせて頂きます😍
歴史映画を一本観たような満足感を覚えました。
隊長の考察が次々と展開して行く過程で 陰陽師の活躍まで脳裏に映像化されて 本当に面白く視聴いたしました。
久しぶりに 日本の歴史の重厚さを感じました。隊長の才能 凄いです❣️
凄いですね…安倍晴明に隊長、呼ばれたのでしょうか😊五輪塔や宝篋印塔がこういった場所にひっそりとあるなんて、山村代官屋敷に伝わる白狐さまのミイラも丁寧に保管されており確信はなくとも晴明の関係性がわいてきますね✨いつも素敵な癒し動画をありがとうございます⭐︎
安倍晴明は京都に神社もあって結界をはっているので、もしお墓があるなら京都だと思ってました😊全国にいくつもあるって凄いですね!探索配信をありがとうございました!
NHKの番組のような見ごたえでした。
ありがとうございました。
NHKなんて信用する価値ありませんよ。中国放送局だと知らないのですか?ドキュメンタリーですらあちらの国に都合の良い用に編集され、被害者が沢山います。NHKを盲信されませんように。
東濃探検隊、他のチャネルにはない独特の雰囲気が大好きで、動画をお待ちしておりました(笑)。
丹念に調査されており、動画で垣間見える隊長さんの人柄も好きです。
今は東京に住んでますが、生まれ・育ちは名古屋でして、また東海地方の面白い場所、不思議な場所を紹介して貰えると嬉しいです。
大変勉強になりました
ありがとうございます
こんばんは、お久しぶりです。
しばらく動画が上がってこないから、体調でも崩されたのか?っと、心配しておりました。
歴史を知るうえで、色々と勉強になる動画、ありがとうございます。こういった探検は、若いころの爺もよく行ってました。
地元の戦国武将・毛利元就の祖が大江氏とは知ってましたが、家紋も一緒で感動しました。
今回も素晴らしい場所へ連れて行ってくださり、ありがとうございます。
64歳 爺
@@channel444 へ。
😳大丈夫ですか❓僕も昨年9月に経験しました😮💨僕より若いとは言え、油断は禁物です‼️じゅうぶんにご自愛くださいね。
このチャンネルも、爺の楽しみの一つと言うことを、お忘れなく😄‼️
64歳 爺
最後の方、感動すらしました✨今回も掘り下げて、素晴らしい歴史に触れる事ができ、隊長の好奇心と執念深さと感のお陰で、また1つ勉強になりました✨過去にも霊視や未来が見えたりするかたが、いらっしゃったんですね✨晴明様は、お心優しい方だったのですね✨みんなの悩みを聞き解決を導いたり、その能力を良い方へ使い、思いやりのあった方だったのですね👏
木曽町には嫁の実家があり、何度も行ったことあるのにこういった史跡とかは行ったことがなかった。
やはり木曽は風景も空気もいいし、歴史ロマンにも溢れてる。是非次訪れた際には動画で紹介されていた史跡へ訪れようと思います。
隊長又凄い有名人の壮大な物語を
教えて貰い知らない事ばかりで
楽しく勉強させて貰いました。
有難うございます。
気を付けて探索して下さい。
次回も楽しみ待って居ます。
大変面白い発見でしたね。
興味深く拝見しました。
安倍家は陰陽師として代々続きましたが、後に、福井県に近い丹波の山奥に移り住み、
「土御門(つちみかど)」と性を変え、現代も続いてるそうです。
日本人として、知らないより知っといた方がいい歴史かな、と、私は思いました。
良いねと言うより、「ありがとう」と、言わせていただきます。かしこ。
と言うか、この動画、異常にありがとうが多いのだが、、、。何か、得した気分。感謝。
ドキドキいたしました。何回か通った事のある道。全然知りませんでした‼ 温泉も山村代官屋敷も行ってみたい。(たぶん) 山賊焼きも食べたいなぁ。木曽義仲も出てきて嬉しかったです‼ 滋賀県とは縁があるのだなぁと思いました。ありがとうございました‼ ✨😀👍🙏✨
温泉♨️綺麗な施設でのんびり過ごせました
山賊焼も美味しかった🤤
おすすめです!
お食事なら近隣の【つけもの茶屋】もおすすめです。
カツ丼が美味
動画、楽しんでいただけて嬉しいです😊
コメントありがとうございます🙇
隊長、歴史深い場所に呼ばれてますね。今回も興味深かったです。木曽に清明さんのお墓とは。旧飛騨街道なので木地師の道かと思いました。木曽山村代官屋敷ナレーションの「入り(はいり)鉄砲に出女」ですが正しくは「いりでっぽうにでおんな」です。20数年前よりキレイになってました。木曽福島の町も久々に見れ嬉しいです。有り難うございました。
木曽はロマンが溢れていますね、機会がありましたらもっと知りたいと思います。そういえば寝覚めの床は浦島伝説があると聞きました、是非とも知りたいですね。
コメント早すぎ😂
お久しぶりです🙇
凄く面白かったです!
偶然の発見からいろんな事実が積み重なっていくのが心地よいです。
木曽福島の先の上松宿には、ナゼか浦島太郎の伝説がありますし、
岐阜側の今の瑞浪市を中心に活躍した美濃源氏·土岐氏は安倍晴明伝説でも関わりのあるゴーストバスター·源頼光の子孫だったり、
鬼岩には晴明·頼光が戦った酒呑童子そっくりの盗賊の伝説と首塚があります。
中山道沿いにこういう歴史や不思議な話が点在するのも、何か関係がありそうな、なさそうな…。
歴史ミステリーを探る上質のドキュメンタリーとしてとてもとても興味深い回でした。
自分は以前、安倍氏が治めていた由縁でその名が付いた大阪市阿倍野区に住み、直ぐ近くに清明生誕の地と言われる安倍晴明神社が在ったので安倍晴明には何とはなしに親近感を覚えておりますが(そう言えば信太の伝説を別の意味で小学校時代に習いました)、まさか墓地の1つが木曽の山中に在るとは思いませんでした。(「公式」では京都の寿寧院に在る墓が清明の墓となっている様ですが)
個人的には山村氏が先祖が大江氏と繋がっていた関係で、領地の発展と安寧を願う目的で安倍晴明の力を借りる為に神社を建立し、墓所も作ったのではないかと想像しますが、どうでしょうか?
安部氏の一族の歴史は深く、大彦(膳出臣家、布施氏、高橋氏)ともその息子の沼川別系(安倍家)とも言われています。
塩尻市には日本産大遺跡の平出遺跡がありますが、そこでは三遠式の銅鐸が出土しています。それまでは長野県は銅鐸文化県外とされてきました。
近畿から北陸にかけての銅鐸と、東海から長野にかけての銅鐸は種類が別になっており、東海系の銅鐸が三遠式と呼ばれ、安倍系の銅鐸と一部では考えられています。
つまり、清明の一族は、元々の安倍家の血筋を頼って木曽に来た親戚筋ではなかろうかと思われます。
①上松町には、葛の葉神事と言い、母親の狐が出てくる神事のある神社があります。
②木曽の清博士の像は、横から見ると狐に見える細工がしてあります。
③中央アルプス東の、旧辰野病院西側の山付きのところに現在では霊園となっている場所があり、今では鳥居のみになっておりますが、その神社跡地には、清明不動の石が現在でも残されています。
④公式にはどの家かは明確にされていませんが、安部氏は諏訪大社の社家の一部の家になってるそうです、
⑤少なくとも桓武期には、清明の子孫の谷沢家が、諏訪大社神社に伊勢から移転してきています。
⑥安倍家は、架空化された神武の一人、カゴヤマ→村雲→海部家(尾張家)の一族で、女系は出雲に近く、その関係で大彦は息子に、沼奈川姫に因んだ、沼川別の名を付けたそうです。
⑦松本平には弘法山古墳があり、ちょうど、東海式土器の文化との境になっていたそうです。
⑧新潟の弥彦神社は、実は大彦系の神社で、社家はど真ん中で高橋家になっています。その神、イヤヒコ神社も、銅鐸の出た依頼で遺跡の近くに現在でも鎮座し、辰野の小野神社では、諏方敬神社と共に信濃の国三ノ宮になっています。
オススメにでてきて 感動しました せいめい
義仲の産湯の井戸が、埼玉県嵐山町に、現代まで、伝え残されています、当地に連れてこられた時は、赤子であった義仲を育てたのは、すでにその土地にいた豪族だったそう です、残念ながら義仲が討たれたことで、その豪族の由来が消えてしまったかも知れません、すいません、その豪族の名前を忘れてしまったのですが、その豪族が晴明とつながるかもしれません、義仲が討たれたことで、いわゆる、敗者の歴史になったようですね、残念です、以前、私も、通りました時、何故?と、不思議でしたが、この動画で、助かりました、大変よい動画と思います、😊
木曽に逃れ、義仲の乳母の夫である中原兼遠(かねとお)に育てられたんですよね☺️
その方が豪族だそうです!
自分の推察ですと義仲が京都から移動の際に晴明の遺骨を託されたと思いました。
コメントありがとうございます🙇
歴史上の人物の子孫は沢山おられるでしょうね
その中で財力のある方は、
祖先のお墓を祀ることになって
全国あちこちに有名人のお墓が存在するという
複雑な原因の一端を
(なんだこういうことだったんだ!)
知ることができた
気がします・・・
隊長が音信不通だから冬眠してるのでは? ウソでしょ?
今回のお話しは隊長が、夢まくらで見た景色なんじゃないかと、思いましたね。
相当な直感と感受性があるんでしょう。
磨滅具合からかなりの時間、風雨にさらされていつかは土にかえりそう・・・
個人的には、清明を知っている人物が都落ちをしている過程で立ち寄りその土地の人たちに呪術を見せ、その地で溶け込んだのと思われます。
呪術と言っても、それは医療であったり、手品であったり、あるいは字が書けたりと知識や技術の類なのだと思います。
当時は大貴族でも個人の墓は建てず、風葬地に遺体ポイ捨てで終わりだったから、ほとんどの場合墓は未特定というか特定不能。
安倍晴明も同じだと思ってたよ…
ふと思ったんですが、
関所って施設の意味合いかんがえたら、この辺りが都からして鬼門なのでは?とおもいつきました。
嵐山にも墓所がありその辺りは御所からして裏鬼門になりますからね。
偶然見つけて惹き込まれ、即チャンネル登録しました。毛利元就の墓所と同じ山に清神社(すが神社)がありますが、大江家の話もあり、清つながりに共通する何かがあるのか、想像が膨らみました。
晴明に所縁のある地といえば、子孫の土御門一族が応仁の乱の戦火を避け移住した若狭名田荘が知られており、関係者のお墓や儀式場なども守り伝えられているので、近畿からより遠い木曽に晴明の痕跡があるのは不可思議ですね。しかし、たとえば、ミカド中心の中央集権国家体制確立の立役者であり仏教の庇護者であると一般に認識されている聖徳太子が、東北や北海道ではなぜか大工や工芸職人の守護神に転化している例があります。百済から宮大工/技能者集団の金剛組を招聘し法隆寺や四天王寺を建立した史実や、太子が生きた飛鳥時代以降の奈良平安時代にも蝦夷開拓や大土木工事に渡来人を使役した歴史などが背景になっているものと推察されます。安倍晴明もこの聖徳太子の例のように本来の業績から飛躍した守護神的役割を担ったのでは?と思わせる石碑や晴明石といったものを鎌倉の路傍で見ることができます。大庭平太景義が担当して源頼朝の屋敷を建てるにあたり、期日が間に合わず 間に合わせに移築した正歴年間に建てられた古い家屋が晴明が鎮宅の護符を貼ったがゆえに火災に遭ったことのない安全な家であったというもので、晴明は鎌倉のその地域では神君や大神と祀り上げられ石碑に名を刻まれ災難除けや火災除けのシンボルとして扱われているようです。
私も年明けコロナでしたが2度目😊最初は2020年4月で第一波を東京にて感染しホテル監禁でした^ ^
復活されて良かったですね
無理せずマイペースで動画作りを楽しまれてください。ありがとうございました^o^
大変面白かったです!
時代と共に、真実は特定の人により変えられたり消されたりしています。
しかし、名残りは必ず残る物。
きっと木曽福島はそんな場所なんでしょうね。
福島県福島市在住ですか清明町という町にかつて晴明塚と道満塚という塚がありました。
塚は開発で消滅しましたが地元の福島稲荷神社は安倍晴明が豊受比売大神を勧請したのが始まりと伝わっていてなんらかの関わりがあったと思います。
私事の独り言ですので気にされずに・・
清明墓に纏わる探索は多岐にわたり、重要な命脈の一かと思われます。・・
ただ 清明の没後?に枝分かれしているため、ルーツにはたどり着きにくいとは、思われます。
五芒星とか系譜から辿ろうとすれば、必然的に 明智の桔梗紋とか織田の木瓜紋から登るのが一般的ですが
、どちらも遡れば 土岐氏にたどり着くかと。・・
山村氏の栄華が長期間続いたのも、明智・織田と 徳川の関係を鑑みれば一目かと思われます。
こんばんは、お疲れ様ですm(_ _)m
お久しぶりです(*^_^*)
安倍晴明の墓の謎が分からないのは残念ですが、いろいろと勉強になりました٩(ˊᗜˋ*)و
ちなみに、俺も酒好きです(笑)
それでは、次の動画も楽しみにしています(*ˊ˘ˋ*)。♪:*°
隊長 福井県にある 天社土御門神道本庁 と安倍晴明どの関係調べて欲しい
わかる範囲内でお答えします🙋
現在に残る土御門家の末裔としては、現状の最後の男性当主である土御門範忠(1920年 - 1994年)の娘、土御門善子(1959年 - )が一人のみです。 血脈上の代としては、安倍晴明から数えて34代・土御門有宣から数えて18代にあたります。
明治維新後の1870年、新政府が陰陽道を廃止する「天社禁止令」を発布しました。それにより、土御門家は陰陽道から離れ、陰陽師という役職も公的存在を失いました。戦後には天社土御門神道が再興されましたが、土御門家現当主は関与しない姿勢を貫いています。
歴史小説を一冊読み通すような濃厚な時間でした。ありがとうございました。
そう言っていただけて本当に嬉しいですよ☺️
ありがとうございます🙇