北条家の家格を知って驚愕する読者の反応【逃げ上手の若君】
Vložit
- čas přidán 2. 02. 2024
- このチャンネルでは「逃げ上手の若君」に対するみんなの反応集を紹介しています!
ぜひチャンネル登録・高評価応援よろしくお願いします!
【動画内の引用作品】
逃げ上手の若君/©松井優征/集英社
【著作権に関しまして】
動画で掲載している画像などの著作権や肖像権等は全てその権利所有者様に帰属致します。
各権利所有者様や第三者に不利益がない様配慮しておりますが、動画の内容に問題がある場合は、各権利所有者様本人からご連絡頂けましたら幸いです。
#逃げ上手の若君
#逃げ若
#反応集
都で貴族から人間扱いされなかった北条家が貴族に取り入るために蹴鞠を覚えて、そのうち蹴鞠自体に熱中し始めた話好き
日本では北条家は有名だけど、海外では無名なので、Civilization6にて北条時宗が指導者に抜擢された際に
北条家家紋を見た海外ニキがトライフォースと誤解して「Zelda Fan Boy」とニックネームを付けられたエピソードすこ。
Trap boyに進化遂げそう
後北条家は割と有名だと気がする
The best of Bussyだぞ
忘れられがちだけど、当然鎌倉期には「幕府」っていう政権前例が全くないから手探りアンド手探りよ。北条氏も天下を取りたかった訳じゃなく権力闘争に勝っていたら政権運営になってしまったようなもんだし。
頼朝の代からすでに「自分の没後は頼家を比企氏が補佐する政治で」と路線が定められてしまい、そうなるとなまじ権力のある北条氏は比企氏から警戒されて滅ぼされる可能性が高かったので、自家の生存のために先手を打ったのだろうな。比企氏とべったりの頼家も一緒に滅ぼすしかなかった。実朝はゲイだし政治で主導権を握ろうとしなかったので北条にとって安全だったが(暗殺されたのは想定外)、源氏将軍が絶えることは確定していたので実朝以降は北条が政権を担うしか選択肢がなかった
鎌倉殿の13人見てたおかげで割とすんなり飲み込めた。
義時は好き放題やってたけど、「北条はあくまで鎌倉将軍家の家臣」というポジションには徹してたから。
ナンバー2ポジションで上手くヤっていたが
次第に専制的になり挙句に家令に実権を奪われた
そして朝廷による討幕に不満が募っていた御家人が乗っかった
@@user-ii3xb1lc1l 作中、「鎌倉幕府はよく分からんけど、なんか知らんうちに滅びた」って説明があるけど、
個人的にはあなたの仰る通り、北条氏が長い時間の中で自分のスタンスを忘れた結果、取り巻きの寄生によって北条本家の実力が弱体化してしまい、正統性を失ったのが一因だと思ってます。
まぁこの同じ轍をみんな仲良く踏むんだけどね
知識ある人たちの雑談ってそれだけで勉強になるんだな。
氏素姓もあるが北条氏はあくまで執権。将軍の補佐役であって将軍そのものではない。鎌倉幕府はそこが足利幕府や江戸幕府と明確に違うので、官位もそれ相応のものになってしまう。
従三位の政子以外殿上人出てこなかったし、「執権」という権限を維持するために毎代「若い皇族を呼んで傀儡にし、適当な年齢で追い出す」って構造を維持しないといけなかった…
常に地域権力ないし政府の正統性や担保悩まされる 足利はこの反省から武家の王として、武家秩序の頂点となるように、家格秩序を創っていった
実力主義というのは聞こえはいいけど逆に言うなら「実力無くなったらorより格上の人間の指示あったらお前等潰せるで?」に常に怯えないといけない裏返しでもあり…
足利はまず源家だから元の家格が違うからね
@@qwe6667 足利が源氏の末裔であることは事実だけど「足利は源氏の嫡流」「足利は武家の棟梁」みたいな認識は、尊氏が政権を取ってから宣伝工作を続けてきた室町時代以降のもの。鎌倉時代の認識としては「足利は北条の一門」であり(実際に何度も通婚している)、それゆえ名家として認められてきた。足利は北条に権威を与え、北条は足利の地位を保証する互恵関係だった。
だから後醍醐の倒幕運動が尊氏抜きで成功したら、尊氏も東勝寺で切腹する羽目になっていた可能性が高い。それが怖いから倒幕運動に乗っかったわけよ
鎌倉~室町初期までは武士に政治を任せてるだけ という建前で
昔からの慣例ってことで武士の官位は低いままで朝廷の面子を保ってきたけど
戦国に入ると実力で朝廷の土地や荘園も奪われて好き勝手されて権威もがた落ちになったところを
信長秀吉に保護してもらって何とか平穏を取り戻したから
素直に実力相応の官位を与えて守ってもらうしかないわな
シビリアンコントロールから武力政治になってしまった。
北条の凄さは武家政権を安定化させた実績だよね。
清盛も成し得なかったことを北条代々で成し遂げた。
実力主義で誇れる。
逃げ若作者の松井優征先生もその点を評価してましたね。
血みどろの権力闘争はあったけど武家政権を安定化させた功績は大きい。
平家や源氏将軍までは権力の源泉が朝廷が出す官位官職だったからね。
お上の気まぐれで解官されたらタダの人。
承久の乱で攻め上り京で暴れてからは完全に実力。
おかげで歴代得宗は早死・・・・
先例がない武家政権を150年続けたのはすげぇよ
(当主の寿命とトレード)
清盛も頼朝(〜源氏3代)もあくまで「朝廷の中の軍事貴族」という自意識で動いていた
武家と公家が明確に分離したのは北条が承久の乱に勝利した後の話なのであの戦いは本当に歴史的なものなんだなって
得宗家って実際トップだけど名目は将軍の補佐で江戸幕府でいう老中首座の役割を世襲してたって考えると
老中の家格が大体従四位下だししっくりくる
義時、泰時の時に三位になってなかったのが後々まで響いたと思う。
彼らがなってないから他の子孫も三位以上を望んじゃいけない空気になりその結果北条氏は公卿になれない家格という評価が定着してしまった
三位以上は室町時代でも将軍だけだからねぇ。鎌倉公方でやっと従三位。
北条で政所設置できるようになると、もはや将軍の家宰では居られないし、難しいところだと思う
@@naoki080808
大内氏を忘れてるぞ
大内義隆なんて従二位まで成ってるし
@@PcpKny おっしゃる通りですが、あれは義晴期で、応仁以前は四位までですね。
秩序ブレイカー枠だと思うのです。
独自で朝廷と交渉しており、幕府の枠組みを逸脱してると思います
@@naoki080808
確かに朝廷との独自ルートで昇進してるので別枠と言われると、返す言葉がない(苦笑)
こういった事が、大内氏は公家趣味こじらせて大寧寺の変を経て滅亡した、と思われてるのが不憫だよね。
@@PcpKny ですねぇ。趣味じゃなくガチ、実利も有る。まぁしかかくさんの動画の受け売りなんですがw
逃げ若を機に室町人気が盛り上がるといいですね^_^
北条は結構な代を世襲で権力を受け継いだのでなく毎回権力闘争で勝ち残ったらしい。
それくらいには権力闘争が巧みだったそうな
間違ってる人がいるけど、
関白・征夷大将軍
は、令外官なんで正確には何方が上なんて無いんよ。
ただ、関白に就く摂関家が元々位が高いから、関白に就く人が高いだけで。
同じく南北朝を描いた『極楽征夷大将軍』(去年直木賞を受賞した本)でも「平氏の木端である北条家が不当に幕府の地位を占めているのはおかしい!源氏の直系である我々足利が幕府の運営権があるはずだろ!」と足利家の面々がぶち上げてたからな。 さしたる家格が無いっていう認識は共通認識みたいね...
>さしたる家格が無いっていう認識は共通認識みたいね...
作中だと『日本でも指折りの名門の子息です!』みたいな描かれ方してるけど、実は血筋でいうとラスボス尊氏やバカ殿に全然負けてるんだよね、若………
知人と北条家の家格話してて、最終的に【歴史ある成金(財閥みたいな)】で落ち着いた。
一流血筋と比べたら劣るけど、有能な人が続いた権力ある一族的な。
足利も討幕時は大した家格じゃないけどね
そもそも足利が源氏の直系というのも、、、
御葉門ってくくりが作れるくらい鎌倉将軍家と同じ系統の源氏がいた訳だし、、、
@@naoki080808
そうなんですよね。けど有力なお家を代々北条家が...
@@user-yu7rr5pp6g
・そもそも源氏内部でゴタゴタがありまくった
・梶原景時、比企能員といった頼朝に近しい面々を北条家が次々に一族郎党根絶やしにかかった
・代が変わった後も和田義盛を挑発・返り討ちにし、権力を盤石に(足利家も更にのちの霜月騒動に巻き込まれて当主が自害)
など...源氏系を始め、血に塗れた権力闘争で政敵たちを権勢を維持してきたので、勢力に優れ、かつ後醍醐天皇の力を借りることのできた新田・足利の源氏系武者が勝てたのも、時勢によるものも大きかったと思います。ただ単に源氏と言うだけでは、おっしゃる通り腐るほどいますからね...
武士の出始め出しこんなもんやろ。むしろ、そんな官位で何代にも渡って政権を継続できた事の方が評価できる。
影響力は別として、あくまでも「将軍に仕える御家人」としては北条も地方の貧乏御家人と対等な地位だからね。
それが御家人制度の強さでもあったのだが…まぁ破綻するのが分かりきった体制だったとしか
最初はワンオブゼムだったのに、内管領とかできて北条氏だけの体制になったあたりで破綻は見えてたんですね(゚∀゚)
秀吉は実質的に貴族の義系になってるからなぁ
一歳違いで養子縁組する近衛前久の決断力はさすがにあの時代ホントにひとりで朝廷背負って武家と渡り合ってただけはある思い切りの良さ
実質的にじゃなくて名実ともにやね
秀吉は天正13年(1585)2月〜3月の権大納言在官の時点で堂上に列されていて、公家社会の成員として認められ、言わば武家と公家の両属状態になってたとされてる
@@Hatomaru-l5s大内氏と同じ武家公卿ってヤツですね。
「義系」とは?
京都で公家を呼んで茶会開いて大名に格を示してるもんな
家康はそういうのはやってないな
信長でも公家呼んで茶器を展覧してたのにな
まぁ元々伊豆の地方領主だし、当然といえば当然
義時・泰時の代から朝廷とは敵対してたし、そら家格も上がらんだろと
北条家の家格の低さは幕府が終わるまで結構な弱みというか悩みの種だったっみたいだからなぁ。
それが権力構造の脆弱な部分にもつながってるっぽいし。
鎌倉幕府は約150年続いたけど、うち北条家独裁が完成するのは承久の乱以降の約110年間。御成敗式目を制定した北条泰時が事実上の家祖と言っていい。そこから泰時ー時氏ー時頼ー時宗ー貞時ー高時の6世代で滅びている(しかも貞時の後半生と高時には実権がなかった)。当時の早婚を考えるとかなり短期間の滅亡と言っていい。これには家格の低さと権威のなさがかなり影響している。
当時最大の権力者が、天皇から任命された鎌倉将軍の執権北条氏の内管領長崎氏という、会社でいうと課長クラスが一番権力あるとわけわからん状態だったんだよなぁ
北条義時は承久の乱の直後、関白になろうと思えばなれたんだよ。当時の公家の日記にも書かれていたはず。
でも、彼はならなかった。彼は朝廷からの要請よりも、他の御家人の目を気にした。
当時、鎌倉幕府の最高権力者は北条義時だったが、北条家が支配する領国は、関東の重要部分を抑えていたとはいえ、
日本全国で見ると限られていたからだ。
右大臣になった実朝があんな死に方をしたのも、思い留まった理由じゃないですか?「朝廷での地位なんて、必要最小限に高ければいい」って思ったきっかけにはなったと思いますよ。
歴史もうわっつらじゃなくていろいろな流れをみないとおもしろみがわからないから難しい
つええやつがかつんだ!っていうだけじゃないし
朝廷が頼朝を取り込まんとして高位を与えたのと、鎌倉将軍が摂家や皇族出身だったことで征夷大将軍だけが武家の中で隔絶した高位に就く前例を持っていた。
朝廷は織田信長・豊臣秀吉を天下人として将軍と同格として扱い高位に就けた結果、秀吉は関白まで昇って朝廷の高位の官位を武家にばらまきまくってインフレを起こした。
結果、鎌倉幕府の執権や室町幕府の管領の官位は大したことがないのに対し、桃山時代や江戸時代の大名の官位はすごく高いという現象が起こった。
豊臣政権が官位インフレ起こす前の武家の官位は高くないからねー
たまに変な特例はあるけれど(従二位ってなんなんだよ義隆さん
それ以前の時代に太政大臣まで上り詰めた平清盛や足利義満が破格の存在なのが分かりますよ。武士を公家化するのも、ステータス向上の意味ではありなんですね。
そもそも鎌倉幕府のメインテーマが。
朝廷の権威を骨抜きに陳腐化することだから。
自分らで官位あげるわけにいかないよね。
@@matukawatositane最近アメリカ人で日本の歴史を研究してる学者が義隆の頃に山口遷都を画策してたんじゃないかという説を出してたりするしなんかあったかもね
@@dauny08 コンラン教授の説は気になりますよね
近衛大将と違って征夷大将軍は「在京義務がない」のよ これが重要
大河の平清盛では親父世代がこういう家格を積極的に上げてくかどうかで役職に差が出てくることを描写してましたね
官位は比較的低かったが、平氏の遠祖である平「貞」盛から北条「貞」時、「高」望王から北条「高」時と、鎌倉時代後期には平氏の嫡流のように振る舞い始めており、家格向上の努力が見てとれる。
信長が平氏を名乗ったのもそうだけど、壇ノ浦で散ってから時間が経ったことで平氏の格が復権したみたいでほっこりする
平家と平氏とがグチャグチャになっとる。
@@PatadNour平氏の格は別に落ちてないけどな
堂上平氏とかいるし
武家官位と公家官位が峻別されたのが室町以降。
ある公家が「武家の官位はベツモノ」と言ってる、公家と同じ官位で被ってる事例も数多く。
室町殿だけが朝廷からの正式な官位を貰って、他の武家は室町殿を通じて貰うシステム。
基本、従五位下からスタート。
ただし大内は直接朝廷から官位を授かっていた。
徳川からだよ
@@user-eq2se8qb4i違うぞ
義量や義勝より全体的に家格低いんかい...
家格(権威の拠り所)・血縁(コネクションの基本)・領地(軍事力経済力の基盤)がそれぞれに絡み合うんよね
元々は一つ目と三つ目が無い雇われ暴力装置が徐々に三つ目を確保して台頭し始め最後に徳川家が全国統治体制を確立するまでのトライ&エラーの物語として考えると、秀吉の全二者をまったく持たないが最後の一つで最初の一つは高みまで押し上げたものの二つ目が確保できなくて短命政権化したドラマ性の高さったらないね
戦国時代の時にはもう朝廷金なさすぎてバンバン売ってそう
南北の時点で相当売りまくってたらしいが
後北条氏は元々伊勢氏の分家筋で、室町幕府内では将軍家最側近の一族だし、祖の新九郎は今川家とも直接的な縁戚関係もあるんで家格的に別に北条氏名乗るメリットは薄いはずなんだよなぁ・・・
「伊勢」の名字があまりにも西国寄りで、関東だと「誰だお前?」状態だったんです。それで(少なくとも関東ではまだ威光があった)北条姓を名乗ることにしたんですね。
関東で伊勢姓ではよそ者感が強いから。善政をしてるから平民にはそのままで良いけど、土着の氏族相手だと、ね。
元々韮山が本拠地 だったのもあるし、氏綱公の正室が北條ゆかりの人みたいだし。
平安・鎌倉までは父親の官位が重要なんだけど、北条氏は代を重ねるほどに官位が上がる前に若死するからなぁ
室町幕府は義満が久我家から源氏の神宝の矢伏の面を強引に奪取して以来、源氏の氏の長者として遇されているので家格は高い。
北条氏の場合は貞永式目により律令上最優先とされる式を規定して、墾田永年私財法により各地に生まれた寄進系荘園の所有権を元の所有者である地方武士へと名義変更する権力を得たこと。
しかも式目(式の目次)として成敗後の処断は規定していないので量刑は恣意的にてきるという権力を行使したのが大きい。
祖の北条時政からして一応伊勢平氏流を称してはいるけれども系統がはっきりしない伊豆の土豪に過ぎなかった人だからな。娘政子(朝廷から位階に叙されたときに便宜上父親の諱(名前)から政をとってつけた呼称なので実名は不明)が源氏嫡流の頼朝に嫁いで将軍御台(夫人)と言う地位を得たお陰で力をつけ幕府権力を掌握できたというところは否定できない。家格はそう簡単に上がるわけではないし。
むしろ後に戦国大名になる北条早雲の子孫の後北条氏の方が伊勢平氏流の伊勢氏ということで出自がはっきりしているし、代々室町幕府の所に勤めて国政に携わっている家系ということで家格も有力守護並でこっちの方が高い位😂
北条氏は朝廷から見たら形式上は陪臣だし、北条氏自身も朝廷から官位を賜って権威付けという発想はそれほど無かったんじゃないかな。敢えて言えば歴代執権の多くが「相模守」を任じられるのがシンボリックではある。
鎌倉時代には武家の官位は(後世よりも)総じて低く、北条得宗家がもっとも高く、次いで、北条氏庶流と足利氏といったところ。
武家の官位が高まるのは、北朝朝廷と足利幕府が一体的存在となるようになってからだね。
関東には堀越公方や古河公方の足利一族、関東管領の上杉氏、常陸源氏の佐竹氏といった名門がいるから北条氏の末裔を名乗る利点が無いし必要も無かったからね。
後北条氏の様な外から来た新参だから名乗れたんだと思う。
北条氏は短命で30代で死ぬ人多かった。心労凄いんだろうな。江戸は260年で15代(平均17年)、室町は240年で15代(平均16年)なのに、鎌倉執権は130年で16代(平均8年)も変わった
九条兼実が自著「玉葉」の中で北条時政のことを「北条丸」って書いてて、「エート誰だっけ?あの頼朝の代官の…そう北条!…あー北条の何だっけ…下の名前聞いたか聞いてないかも忘れたわ」って扱いしてる
室町幕府の三管領家も従四位下や従五位とかだし
鎌倉公方も尊氏の子基氏が従三位だけど
それ以降は従四位までだから
執権という立場だとそのくらい
なんだろうかな?
後北条氏が朝廷から北条氏の後裔
として認められた時に得た官位も
従四位下左京大夫で細川京兆家と
同格だったし。
徳川幕府も御三家とか老中クラス(大体)は三位四位くらいだしな
@@Noya360Key 尾張と紀州が大納言、水戸が「黄門侍郎」中納言ですよね(*^_^*)
北条得宗家の政治力の高さとそれなりに善政を敷いてたからな。
それが御内人が北条家を傀儡としたところで、北条の既得権益ばかりが目立ち、終焉を迎える。
秀吉やべーんだよ、単体の能力で考えれば日本史上最強級だぞ
将軍じゃなくて執権だからな。あたりまえだろうに。朝廷の官位よりも武士の実力で武士の支配に変えたのが鎌倉時代。
足利一族とは言え、一介の旗本だった吉良上野介義央が
従四位上だったのは、結構すごい?
吉良氏は足利一門のなかでも特に名門とされる家だし、高家は将軍の代理で朝廷との対応に当たる都合上官位が高くなってる。
足利一門とは言えじゃなくて足利一門だから官位高かった定期
執権はどこまでいっても将軍家の執事(実務代行者)でしかないからなぁ、実質云々いってもそらそうなる
執権だけならまあ権威も保てたケド、泰時以降短命だったせいで得宗専制になったのが不味かった。執権すらお飾りにして、幕府の評定衆も形骸化って、権威を放棄している。
戦国時代になると妖怪首おいてけすら従五位上相当を貰ってるからなぁ
実朝の官位は右大臣で書いて差し上げろ
これで家格が低かったってのはちょっと違ってて、平安以降、従五位以上が貴族、その中でも従三位以上が公卿(上流貴族)って価値観なので、貴族ではあった
北条氏は官位的にも文化的にも政治的にも上流であったことには違いはない
鎌倉幕府ってのはトップである鎌倉殿(よく将軍と呼ばれるけど、厳密には征夷大将軍と幕府トップの地位はイコールではない)が三位以上の公卿として設置する家政機関であって、源氏将軍、摂家将軍(九条家出身)、宮将軍(親王)はいずれも上級貴族としての地位を有していた
それに対して、その家人に当たる御家人のうち有力なものは従五位以上が与えられてて、北条氏各流の他にのちに室町殿として鎌倉殿の地位を継承することになる足利氏もそれに当たるんだけど、北条氏嫡流(得宗流)は任官も早く官位も高く御家人の名がでは圧倒的トップだった
この将軍(公卿)-有力家人(従五位以上)ってのはちょくちょく乱れはしたものの室町幕府、江戸幕府にも引き継がれてて、例えば江戸期の大名は基本従五位、有力な大名は四位で、御三家御三卿やそれに準ずるとされた加賀前田家だけは公卿に登った
自称平氏の田舎武士の家出身の女性ながら最終的に従二位になった北条政子はやっぱりすごい。
実朝が殺されて鎌倉に政所を開くことができる従三位以上の人間がいなかった時に、尼将軍として政所の正統性を揺らがせなかったのは個人的に大きい功績やと思ってる。
生前に従一位(死後に贈正一位)まで上り詰めた秀吉は百姓出身と言えど豪農説があったりするから、成り上がり度で言えば政子の方が勝ってるかもしれない。
室町幕府政所執事の伊勢氏(庶流に後北条氏)と鎌倉幕府執権を世襲した得宗家北条氏って実際のところ官位的には同格ぐらいになるんかな?
ざっと調べた感じだとどちらも従四位から従五位の間の官位だし。
時期にもよると思うし、あまり官位でまとめずに位階と官職(特にこっち)でそれぞれ考えた方がええかも
官位相当もあまり重要視されてない印象はあるし
家格の面で言うと官位相当よりも幕府内の家格秩序を規定するような栄転とかの要素が大事なんかな
@@Hatomaru-l5s 元寇や両統迭立の経緯を考えると北条得宗家は官位や日本全国の支配には興味無くて幕府内での地位や権力に固執してたぽいですね。
泰時と同格とは、政村は色々とやり手やな
武家の位階は有力御家人・守護・大名あたりが四位から五位(一部例外有り)。公卿になれるのは将軍や天下人クラスやその親族。ザックリではあるが、そんな感じでイメージしていただければよろしいかと。
ちなみに内大臣~太政大臣になると、将軍や天下人本人しか就任できない(一部例外はあるし、必ずしもなれるわけではないが……)。
源義家だって正四位だったんだから北条の極位が正四位ってのは別に低い訳じゃない
当時武士では最も高位だったし、貴族含めた平氏の中でも最も官位が高かったのも北条だったとか
八幡太郎義家から源頼朝までおよそ150年と考えれば数十年後には得宗家当主はもっと高位に上れたかもね
後醍醐天皇の討幕運動さえ乗り切れてれば、の話だけど
あくまでも将軍の補佐役であるから五/四位で満足乃至充分と考えたのではないか(室町の管領、江戸の老中も同じ位階)。頼家の頃から実質上将軍は傀儡な存在であり北条は御家人の中では筆頭という位置付け。ただ執権も幕末で内管領に差配されるという悲しさ。北条一門による寡頭政治の為に他の有力御家人や北条同士の潰し合いをし続ければ皆疑心暗鬼になって討幕に参加するのは仕方がない。
後北条氏は、近年に傍系ながら執権北条氏と血縁であることがわかってるよ。
本来、官位を与えられることによって、その人物に特定の地域の行政権が付与されるはずだったけど、武家政権の時代になるにつれて、軍事力で実行支配して行政権を宣言するようになり順序が逆転してしまったからなあ。(秀吉なんかは実際に付与されてない筑前守を僭称してたんだっけ?)
鎌倉幕府自体、頼朝が征夷大将軍という朝廷から権威を与えられた時を開始点とするか、実際に鎌倉周辺領域を実行支配して行政権を宣言した時なのかで諸説分かれてたし、この時代の「始まり」と「支配の正当性」ってめっちゃ定義が難しい。
そりゃ時代が違うから当然の話。鎌倉幕府は全国政権ですらなかったって説があるくらいで、武家政権の力はまだまだ弱かった。
鎌倉<室町(過小評価されがちだが実体は鎌倉よりはるかに強力)<織豊<江戸と力が上がっていったんだよ
国は違うが800年フランス王として君臨し現在も残っているカペー家ってやばない
スペインで良ければ今でも王様やってますしね。ナポレオン侵攻やフランコ独裁による断絶も乗り越えて。
ルクセンブルク@@schimitch3277
ブルボン家ってカペ−の流れを引いていたんだ!
勉強になるなあ
なんで秀吉だけそんなインチキじみた出世したの……?
しかし今も昔も日本人は番付けものが本当大好きよね
後北条氏で思い出したけど逃げ若にも出てくる三浦一族ってそういや後北条氏に滅ぼされたんだよね……
…官位、近代だと中曽根首相(生前従六位、死後従一位)や安倍首相(死後従一位)がもらってたりする息の長い制度ではある
現代じゃ死後にしか贈らないけどね、勿体ない。
もっと科学者とかに贈ればいいのに。
言うなら「位階」。官位とは「官職」と「位階」。
現在日本の勲章には何の価値も無いんだよカーチス・ルメイで検索してごらん
@@user-qm9jl2de2d
ルメイ氏に関してはそうともいいきれないのよ
確かに相応の理由(空自による対戦略爆撃における防空システム構築とかぬ)があるのがね…
@@user-jf6tc3ux6z在日米軍は反米政権が誕生した時にクーデターで政権を転覆するためにある
1994年北朝鮮核開発危機で当時クリントン政権は核施設空爆を約束しながら事実上核保有を黙認
した時点でアメリカを疑うようになったが更に北朝鮮ミサイル実験を口実に何の役にも立たない
ミサイル防衛システムを買わせたり何でもアメリカにおもねる従米自称保守にウンザリしてるよ
対米独立戦争で在日米軍を追い出して速攻で核武装し自主独立国家になる事だけが日本を救う道
従三位すらねぇの!?と思ったけどそこまで行くとほぼ貴族の最高位だからそりゃそうか……
従三位になったら自分で政所開けて、相当する役職も近衛大将とかになるので、鎌倉殿(もっと偉い人が就いてるけど)と同格。ってことは「鎌倉殿の執事職」できないじゃん。え、お前鎌倉殿に取って代わろうっての?って野心のアピールになっちゃう。
@@tata-dm6ig のびのび昇進もできないのか……しがらみがあるのは昔も今も同じですな
某ゲームのトライフォースやミツウロコで有名だからある意味最強
実はのちの武家政権も似た様なもの。 室町幕府を牛耳り、将軍の挿げ替えさえやってのけた細川も官位はあまり高く無かった。
織田や徳川も同様で、例外は豊臣。 関白としての権能を利用した結果、やたらと官位が高くなった。
何が征夷大将軍だ、こっちは宇宙大将軍だぞ
北条って、そんなに家格が高かったんだ。
政子が従二位
ってことは北条家で一番官位高いの政子なのか
警戒されない家格だから頼朝が天下取れたんやろな
秀吉は近衛家の養子に
信長は平氏を僭称
家康は源氏を僭称
主従逆転して生活の為に官位を売るようになった室町時代末期になるまで武家の官位官職は低い
勝手に自称した武家官位もある
東国なら官位官職がよりも武力
征夷大将軍も関白も権威付けされた元々常設じゃない職で近衛大将もかねてるしね
足利家は源氏だけど、北条は平氏が滅亡した時点で本質的には御家人でしかないしな
平氏は滅亡してないぞ?
滅亡してたら関東の武士軍団はほぼ居なくなる。千葉も三浦も長尾もetc...全て平氏。
足利は頼朝時代の人が従四位下だから幕府スタート時点では北条より上。政子の妹を嫁に貰ってるからこの時代から北条と関係が深い。
なんじゃこの教養の高いコメントたちは!?
1:27 ひだりばとうってなんや?
左馬頭(さまのかみ)のことかよ
親王はいっぽんにほん。ゴメンフイタ。
左馬頭 ひだりばとう 好き
03:50
信長田舎大名説はちょっと違和感。
家紋の木瓜は八坂神社の紋と共通なので元々宗教界を通じて朝廷に強い繋がりがあったと思う。
官位を抜きにしても「北条」という名は東国において大きなブランド力はあったんじゃね?
結構家格の高い北条早雲こと伊勢宗瑞が伊勢氏の名前をわざわざ捨てて北条を名乗った位だし。
鎌倉末位にはわざわざ官位なんかなくても北条と名乗るだけで大抵の相手は恐れ入ったんじゃないかな。
北條を僭称し出すのは氏綱から
上杉・長尾への対抗策として北條を名乗り出す
なお上杉長尾からはずっと伊勢と呼ばれた
朝廷にもまだ(地方)政権維持能力あったから戦国ほど官位のバラマキする必要なかったてのが一番やと思うわ。
無い無い。道長や頼通が刀伊、忠常、前九年で無為無策だったからこそ武家が台頭してきたんだし。頼長に至っては義平に自分の派閥の秩父氏を攻め滅ぼされても何も出来なかったんだから。
@@beforeafter3258
いやあるんだわ、朝廷の政権維持能力
基本的に朝廷そのものの行政力って高いし、文書行政司ってるのって朝廷だぞ
そもそも室町幕府が鎌倉幕府とは比べ物にならないぐらい行政能力高い全国政権になれた理由も朝廷(最高法規(律令)に基づいた高度な文書行政(決裁、司法、立法、裁量権))を取り込んだのがデカいんよ
正直言って日本史の朝廷軽視或いは蔑視ってアカンと思うわ。
日本で最初に法に基づいて文書行政を取り仕切りかつそれに則っとり、立法司法行政を施行せしむる官僚機構を作り上げたのは朝廷なのだから注目してほしいわ
全く理解できんのやけど、日本史選択やったら分かったのか、この話…
日本史選択してもわからんと思うぞ
戦国時代に北条の末流を名乗る家が無かったってのは完全に間違いだろ、名門伊勢家の傍流と言えど守護の今川家の正室出せるレベルの家格だった伊勢新九朗(北条早雲)が名門の伊勢を捨てて北条氏名乗るくらいだし関東じゃ抜群の知名度だろ、大体そんな後北条相手に上杉謙信なんかは意地でも北条名乗りを認めず公式文書で伊勢氏呼ばわりしてたくらい関東ではネームバリューあった位だし。
宗瑞様は北條を名乗ってないですよ。伊勢姓に愛着を持ってたようですから。二代目の氏綱公から名乗り出しました。
謙信は謙信で後北条から「長尾」呼ばわりされてましたよね.......
皇族の血筋でも無い限り従四位上が極官でしょ
秀吉が例外過ぎんだよ
北条政子が従三位じゃなかったっけ?
承久の乱に勝った時、宮将軍(宗尊親王)を迎え入れた時、後深草上皇に恩を売った時
計3回ぐらい公卿になれるチャンスあったと思うけど、なろうとした形跡すらないので本当に興味無かったんでしょうね
朝廷に深入りしたら面倒臭そうという京アレルギーだったのか、どれだけ政争で勝とうが所詮自分達は田舎豪族と卑下していたからなのかは分かりかねますけど
鎌倉幕府って全国政権ですらないんだからまあ妥当
そもそも平家の血を引いてるかすら怪しい北条
朝廷組織の中じゃ征夷大将軍よりも右近衛大将の方が位は上の扱いなんだよね
ただ朝廷組織の中でってだけだから武家のトップを作りだすために頼朝は右近衛大将を辞任して将軍に拘った
北条家 ホーエンシュタウフェン家説
理由 一気に落ちぶれた
1250 フリードリヒ2世 死亡
1254 コンラート4世 死亡
1266 マンフレディ 戦死
1268 10 29 コンラディン 死亡
フリードリヒ2世 死亡後14年で3代代替わりとか終わりやんけ
源氏はハプスブルク家でっか?
秀吉に関して言えばその時代もはや官位がたいして意味がない時代だからなぁー
確か北条って平家の分家なんだっけ?
一応、桓武平氏の流れと称してますがwww
遠い昔に枝分かれしたが、坂東に根付いている良文流平氏ではない。
平家とは昵懇
実際それで頼朝を家に入れている
という建前がある
明治以降だけどうちのご先祖様のほうが官位高い
そだね、トレンドだよね
新たなブームを作ってその価値を高めるってのは権力強化の基本だからね
学歴も資格もそうでしょブームを作れば底辺層でも大学行こう資格獲ろうってなるでしょ権力側は潤うでしょ
ただ北条は保守てか猿山の大将でしょだから再起は無かったよね 謙虚すぎるのも良くないね
そりゃあ天皇に弓を引いたもんな
天皇家でTier表作るの凄い楽しそう
横道北海道知事は頼朝よりも北条家に近いね。総理になってもらいたかったな。
家格は低くても民に優しい善政で関東ではその名は絶大、戦に強くないので滅ぼされるけど、滅ぼした後に関東に入った足利や徳川が北条の方が良かったと民衆に言われて苦しむ位。
徳川が言われたのは後北条だから別よ
@@naoki080808
後北条氏も北条家の関東での人気を考慮して北条氏を名乗り出した経緯があるからね。北条氏がどれだけ関東で人気があったか想像できる。
鎌倉時代といわれるだけのことはある
まぁ陪臣だしな
平家(平氏)の末端だしな。追放された源頼朝(ほぼ罪人扱い)の監視役を任される程度。
史実気になってこの作品は主人公に全く感情移入出来なかったなあ。脇のキャラ面白いし、行動原理納得できたが。主人公は何言ってるんだ状態でまとも面してるから主人公に相応しくない。敵非難の理屈や自分達擁護の主張が物語的にも史実的にも矛盾してるのが致命的。
室町末期なんてまだ朝廷が残っていること自体が異常なわけで