”大正浪漫”ときくと、はるか昔の文化に感じますが、私の曾祖父(明治44年~平成19年)が生きた時代と思うととても身近に感じます。
主婦って割と最近にできて最近に無くなりつつある文化なんだな
給料が変わらないのは今と同じ
6:10 ん?日露戦争の戦費を完済したのは1980年代じゃなかったかな
上級国民が利益をかっぱらって大衆が苦しむというのが今と変わらない。今と逆なのは「主婦」が敬称だったように感じます
主婦という定義にもよりますが、給与所得者の夫−生産活動に従事しない妻という組み合わせは、軍人、役人、大企業の幹部など、一部の人々に限られていました。
それが、経済の高度成長期(1955-1973年)工業化が進展し、企業が発展する中で、多くの家族で可能になったのです。それは、男性の雇用が安定し、妻が働かなくても、豊かな生活を築くという見通しがもてたことによります。
なお、実際に主婦の起源は19世紀イギリスの工場労働者からです。それが家業の崩壊期と重なり、1950年代のアメリカドラマの影響で浸透して行きました。
いま住んでるところが東京の綿羊品評会で金銀銅賞独占したことあるってこと最近知った。
時代って繰り返すんですね😢
このまま進めば、米騒動の代わりにどんな暴動が起きるのか不安です
大正は、陸軍海軍とも、軍学校で育った職業軍人が台頭するようになった時代でもある。
明治の藩閥系軍人は、徳川時代後期に藩校か私塾で学び、武士として育った。徳川時代の武士は、軍事と政治の両方に関与する身分である。その名残で、彼らは、軍人であり、かつ、政治家として活動することが多かった。
一方で、新世代の職業軍人たちは、軍学校で軍人勅諭に基づき、軍人として政治に関わってはいけないことを教えられ、生粋の軍人として育った。
確かに、彼らは、軍事と政治の区別をわきまえていた。そのため、軍に関係しない役職に就く際、現役を辞め予備役になることを慣例とするようになった。だが、彼らの「専門家」としての縄張り意識が、いわゆる昭和における「軍部の暴走」の原因となったのである。
20:17この動画を見てる多くの人は「美人の女性は学校を卒業する前に結婚が決まることが多かった」って、誤解しそうだな。
その「学校」というのは高等女学校のことでしょう。当時のほとんどの一般庶民の最終学歴は尋常小学校ですが、学校に行けない人もいました。
その後も学校に行くのなら女性は高等女学校(現在の中学一年から高校二年の五年制)に進学するしかありませんでしたが、学費の高い高等女
学校に通うような女性は上流階級か金持ちの娘です。
なお、いわゆる大学は、当時は男子のみで女性は行けませんでしたので、それ以上学校で勉強するなら女子高等師範学校に進むしかありません。
しかし、高等師範学校は、現在の防衛大学が卒業したら自衛隊に入隊することが義務であるように、卒業したら学校の教師になることが定められて
いましたし、学校の数も少なかったので、高等女学校以上には進学しませんでした。
とはいえ、高等女学校は勉強する場所というよりも、花嫁修業をする場という側面が強く、家で娘に花嫁修業をさせることが出来なかった、当時
急激に数がましていった「成金」の娘たちがこぞって進学を希望するようになり、学校の数はねずみ算式に増えていきます。
当然、高等女学校卒の女性(学生数は一校につき一学年150~200人程度)の数も年々急増していったわけですが、それ以上「学生」でいられない
以上、彼女たちの進むべき道はほとんど就職か結婚(あるいは実家の家事手伝い)の二択です。
貴族や華族、上流階級の娘なら、就職はせず、結婚の一択でしょう。
問題は、上流階級以上の戦争成金などの「成金」の娘です。
当然、就職する道もあるでしょうが、当時は、「良家の娘は就職するべきではない」という社会通念が一般的でしたし、親としては、せっかく
上流階級に取り入ることができたので、その先もずっと上流階級の人々と仲良くして行きたいとうのが正直なところでしょう。
ならば、下手に就職させるより、娘を上流階級に嫁がせて、上流階級と親戚になろう、と考えるのが自然。
学校側も、生徒に良い縁談を持ちかけるようなこともしていたそうです。
また、当時は十代後半で結婚する女性が多かったのも大前提の一つです。
というわけで、以上が「女学生が学校を卒業する前から結婚が決まることが多かった」理由です。
【チャプター】
00:00 オープニング
02:02 大正時代について
02:39 特徴1好景気
12:20 特徴2ライフラインの普及
14:05 特徴3娯楽の発展
15:07 特徴4西洋化した服装
16:29 特徴5三大洋食の登場
17:17 女性の立ち位置の変化
20:36 エンディング