大坂冬の陣|この結末予想できる?!あまりに理不尽な徳川家康の豊臣潰し
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- čas přidán 28. 08. 2023
- 豊臣秀吉没後、徳川家康は関ヶ原の戦いで石田三成に勝利し、征夷大将軍となりました。その後、方広寺鐘銘事件で家康は激怒。豊臣秀頼と淀殿は片桐且元を送り弁明するも、大坂冬の陣へと発展します。大野治長と真田信繁(真田幸村)は戦術について対立、最終的に籠城戦で挑むことになり大坂城南に築いた出城が真田丸です。まず木津川口の戦いでは、徳川軍の蜂須賀至鎮・浅野長晟・徳川義直が現在の道頓堀付近の砦を急襲、制圧。鴫野・今福の戦いでは、徳川軍の佐竹義宣・上杉景勝・戸村義国・渋江政光・水原親憲と豊臣軍の矢野正倫・飯田家貞・木村重成・後藤基次・井上頼次・大野治長が大激戦を繰り広げ、博労淵の戦いでは、豊臣軍の薄田兼相隊を徳川軍の石川忠総・池田忠雄・蜂須賀至鎮が完封。そして、野田・福島の戦いでは、豊臣軍の大野治胤に対し、徳川軍の九鬼守隆・池田忠雄があっさり制圧。最後、大坂城の戦いでは、徳川軍の前田利常・井伊直孝・松平忠直が真田丸を攻撃するも、真田信繁の大健闘で決着はなかなか着きません。最終的に徳川軍の大坂城本丸への一斉砲撃で豊臣家は不利な講和を締結することになりました。徳川家康による徹底的な豊臣家潰しである大坂の陣の前半戦を一緒に見ていきましょう!
関連動画↓
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わかりやすすぎる!!
夏の陣の動画が待てない!!早くアップしてくれ!!
嬉しいお言葉ありがとうございます!!
近日公開いたしますのでどうぞ楽しみにお待ちください☺️
家康が存命のうちに豊富家を滅ぼさなければ家康亡き後徳川は秀頼を担ぐ有力大名によって倒されたでしょう。家康も心を鬼にするしかなかった。
鴫野今福の戦いって大和川じゃないよね?
数年前から明らかに外国から大筒や鉄砲とか輸入したり、大名に誓紙書かせたり戦の準備はしています。
圧力を強めていって臣従するならよし。
逆らえば滅ぼす。
家康公は戦国の覇者ですから、両方の準備はしていたのではないでしょうか?
俺もそう思う((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
ナレーションの 「◯◯です」の「す」
が 「せ」に聞こえます。
ナレーションのかたの前歯?舌?が関係しているのでしょうか。
声質などは
とてもお上手だと思います!
私自身も「さ行」が苦手なので、
このかたの
「です」の「す」は印象に残ります。
結局籠城戦は防衛戦なんだよね。勝った場合、最終的に相手が諦めて撤退する。
もし秀頼自ら出陣してればガチで家康をうち取れたかもしれない。
そうすると歴史が変わってた、
また戦国時代に逆戻りだよ?
実戦経験ゼロの秀頼に百戦錬磨の家康が打ち取れるわけない
真田が夏の陣でやったような相打ち狙いなら出来たかも知れないけど、相打ちになったらその時点で豊富は滅亡だよ
俺もそう思う
兵糧弾薬が少なくなってきたから和議申し出たなんて、今迄読んだ本に書いて無かったよ。兵糧は十分あったのかと思ってた。
そんなら籠城策じゃなくて討って出る真田の案の方が良かった。
兵糧はありました。
福島が8万石置いててくれたのと、大名たちから2万石。買い占めと備蓄米で計20万石ありました。
片桐や捕虜から約5年近く持つ備蓄具合を知って、家康は絶句したとか……。
これが援軍なき籠城を選んだ理由と、兵糧攻めが出来なかった原因です。
ただ武器の確保は、提供を申し出てくれた堺衆から調達してたら、追放したばかりの片桐らが堺に火を放ち、片桐を撃退する頃には藤堂高虎も攻めてきて上手く確保出来なかったようです。
結局、家康は兵糧が心もとなく、秀頼は武器弾薬が不足していて和睦の道を選ぶことになりました。
@@user-wk5pq8fn3h さん
ご解説ありがとう御座います。
色々あるんですね。
木津川?寝屋川では!
淀君を安全な場所に移動させた上で、豊臣子飼いの武将に反旗をひるがえさせ、
潰す気無かったんだけどね。臣従しないから潰すしか無くなった。
あなた、家康さんですか??!
将軍になった後に孫の千姫を秀頼に嫁がせてるし 大坂の陣の莫大な財政消耗も出来れば回避したかったと
思うよ 反家康の連中がああも盛り上がる前に 秀頼が大阪城を出て家康に臣従する事を明確にし 僻地で
大人しくしていたら 豊臣家存続の可能性はあったと思う 反徳川の旗印となってしまったから 家康も
秀頼に死んでもらうしかなくなった
潰す気がなかったとか、家康の腹の中を見抜いていませんね。
家康は天下を揺るぎないものにする為に、目障りな豊臣家を潰すつもりでした。
だから、徳川を潰しておくべきだったのです!
それは、豊臣秀吉も理解していた。秀吉は、家康が天下人への野望を抱いていることを見抜いてました。
しかし、徳川家康は付け入る隙を見せない人間でした。
小牧、長久手の戦いで、豊臣秀吉は家康の強さを実感していたので、何らかの言いがかりを付けて大義名分の下に家康と戦したところで勝てる保証はなかった。
豊臣秀吉は、家康をどうすることもできなかった。
豊臣秀吉亡き後、家康は本性を露にして、天下を揺るぎないものにする為に、豊臣家を滅亡させる為に動き出します。
大野兄が最大のガンだよ・・・
高家として残すつもりだったそうで。
時間さえあれば、大阪方は勝てた。知る人間は多くないけど埋められた外堀のさらに外に幸村は総構えの大堀切を掘らせていた。この完成後に「夏の陣」がきてれば勝てた。それでもあと一歩まで追い詰めるのは武田の血を受け継ぐ真田の意地。信繫の名がそれを成したのかもね。
兵糧は4、5年分あったから坑道だけ気をつけて寝てればよかった。
家康は2年後には死ぬ。
というかそれまでに和睦を申し込んできたと思う。
(実際にも和睦は家康からだし)
なぜ牢人追放はなしと引き換えに堀を埋めた……