日本松少年隊の事は しってました、詳しく動画も挙げていただき感謝です。改めて涙💧です、、、
ご視聴並びにコメントをありがとうございます。
仙台の小学校の修学旅行が会津若松だったこともあり"白虎隊"への知識は若干ありましたが、猪苗代の移住し戊辰戦争を振り返った時に二本松少年隊を知りました。
二本松少年隊は白虎隊よりも若く、しかも最後の一兵まで敵将と刺し違えても郷土や家を守ろうとした姿に感涙を流しました。
加えて二本松藩は賊軍となったことを恥じ、戊辰後50年間このことを口にしなかったのです、その点でも私は二本松少年隊の方に日本人の強さと恥を忌む日本人の潔さをより多く感じています。
丁寧に調べられただけあり一気に拝見しました。「敵を見たら突け」とは、兵士とは言えまだ子ども…。この辺の感覚が白虎隊に通じて悲しみを深くさせますね。今春に参詣しましたが、御朱印書置き二つ有り。枝垂れ桜がまた少年兵を象徴する如く、美しくもどこか儚げでした。
また動画期待してます、ありがとうございます。
いつもご視聴ありがとうございます。
今なら中学1年くらいの少年が命を賭して国や家族を守ろうとしたことは、我が身を振り返ると信じられない決断だと思います。
潔さをよしとする日本人は白虎隊を賛美しますが、私は二本松少年隊の「刺し違えてでも敵を討つ」と言う泥臭いかもしれませんが最後まで戦う姿勢に感動を覚えました。
歴史上の必然だったのかもしれませんが、いずれにしても戦争、特に内戦は悲劇的な一面を持つものですね、良し悪しは別としてこういった先人の礎の上に今があることを忘れないようにしたいですね。
拙い自己満の動画ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします。
二本松には、供中口の古戦場もあります。
二本松戊辰戦史では、大壇口の古戦場と共に有名な場所です😊
ご視聴並びにコメントをありがとうございます。
そうなんですね、資料を読んだとき出てきたような気がしています。
二本松の戊辰戦争も白河の戊辰戦争も訪ねてみたいと思っているのですが、歳とともに出不精が進んでしまって・・・😅、申し訳ありません。
二本松インター手前にある農協の隣に小高い階段があってそこを登ると石碑が3つあります。
ご視聴並びにコメントをありがとうございます。
私も農協にバイクを止めさせていただいて回らせていただきました。
二本松少年隊の史実はもっと広く世に知られるべきだと思います。
こっちはほんまもんの悲劇だからな~。二本松藩は幹部全滅だし。
ご視聴並びにコメントをありがとうございます。
今なら小6・中1と言った子供たちが、自ら嘆願して出陣し、まさに命を賭して、刺し違えてでも敵将を倒さんとした姿は、涙を誘いますね。
また、二本松の皆さんが戊辰戦争後50年間、賊軍の汚名を恥じ、世に語らなかった気質に、義を重んじ恥を忌む日本人の美徳が良く出ていると思います。
これは酷すぎて内容から目を逸したくなるなるレベル。
薩長、永遠に許さず🤬
ご視聴並びにコメントをありがとうございます。
戦いの当事者双方にお互いの正義があったのではありましょうが、内戦はやはり悲惨ですね。
会津の白虎隊が有名ですが、ここ二本松や他の場所にも、それぞれの歴史と悲劇があったことを忘れてはならないと思います。
あれっ?、動画が酷過ぎるってことだったりしますか?😅。
これは、どう言ったら良いかわからないが、会津に根付く武士道精神の凄さ。まだ年若い少年らがみせた真っ直ぐな心。会津の人達を尊敬します。貴重な動画有難う御座いました。
こちらもご視聴いただきありがとうございます。
福島を見て歩いている中で、この"二本松少年隊"の存在を知り、正直、有名な白虎隊以上に感銘を受け、戦争(特に内戦)の悲惨さを感じたところです。
二本松は中通地方で会津ではありませんが、会津をはじめ白河などにも多くの戊辰戦争ゆかりの地がありますし、福島県は自然・食・歴史の宝庫です、機会がありましたら是非お越しください。
@@hukushima_tokotokorider 感銘を受けての移住。まずはその勇気と決断力に、エールを贈りたい。国の統治が揺らいでいる時に、旧幕府軍の旗頭として先頭に立
ち職責を全うする会津藩。
京都の守護のほか、難題を次々に託された。その、重荷。唯一無比忠誠心。そして新政府軍との圧倒的な武力の差。それでも
覚悟をきめた会津藩。
孤立無援、孤軍奮闘に心を打たれる。
己の武士道を愚直に貫こうとする姿は、まさに最後のサムライ。数少ない日本の誇りだ。
「二度とこのような惨劇が起きないよう後世への戒めとしてこの慰霊碑を建立しました」という一文を
見た事がないのは私の見識不足でしょうか。戦いに巻き込まれざるを得なかった二本松の武士町民
150数年後、この地が今や観光地です。その一文が欲しい。うがった見方で申し訳ございません。
いつもご視聴ありがとうございます。
戦争は、特に内戦は日本だけでなく悲惨なものだと思います。
因果応報、全ての事象に意味があり結果が有り、それぞれの正義のために戦い、そして今が有る、まぁ歴史の中で何が善で何が悪かを分別するのは難しいかもしれませんが・・・。
理不尽なことが多い昨今、革命でも起きなければ一気に変わることなどないのだろうと思う今日この頃です。
norio sakamotoさんのおっしゃる想いは二本松城址箕輪門前の二本松少年隊の像、勇壮な少年たちの像の傍らにある"わが子の出陣服を縫う母の像"が語ってくれている気がします。
各地に勇壮な像は数あれど、こう言う母の像はそんなにないのではないでしょうか。
会津の方には怒られてしまうでしょうが、実は落城と誤認して自決した白虎隊と刺し違えてでも一人でも多くの将兵を討たんとして戦死した二本松少年隊と、その最後の違いについて藩の上層部の最後と併せてずっと違和感を持っていました。
最近、その違いが戦国時代と徳川の江戸時代における"切腹"の概念の差から生じたものではないかと言う仮説にたどり着き、自己満しているところです😅。
いずれにしても戊辰後50年、賊軍となった"恥"を忌み、黙して語らなかった二本松の生き様に"日本の美意識"を感じてしまう私です😅。
秀悦な動画です。感じ入ります。私の先祖は隣の三春藩藩士でした。この少年隊の話を聞きにつれ
藩の事情はあったのでしょうが、戊辰に対する行動が余りにを違うので少年ながら傷ついていました。
長岡と同じように藩主・重臣の判断が歴史を刻んでしまった。ここの悲劇は日本人を引き入れる
のに余りあるものです。ここには安達太良山があります。失礼いたします。
平和な今を生きる者には計り知れないことと思いますが、長岡、特に河井継之助は新たな日本を作るために、会津は徳川親藩として徳川家を守るために、そして三春藩も二本松藩も取った手段に違いこそあれ、ともにお家を守るために最善を尽くしたのだと思います。
いずれにしても先人に対しての敬意と感謝を忘れずにいたいと思います。
長々と失礼しました、今後ともよろしくお願いいたします。
日舞をならっていて、本来は[道成寺]等の古典舞踊ですが、60年程前二本松商工会?か青年会議所?か、覚えてませんが、私の師匠が振り付け、私と一緒に習っていた子と7、8名で踊りました。10歳当時のこと、市外の者ですが、踊る為に勉強し、本当に戦う気力あった者は小峰城に参集していたと。
丹羽氏の生き残りの息子さんから、御殿様(跡を執った5、6歳男児)を抱きかかえ、砲弾の中を逃げたこと、を母を通して聞きました。オリジナル歌手は、母方の親戚で、昔は蛇の鼻御殿で花見に呼ばれたと話していました。シンクロですね~
少年隊の最期はお腹に⚔を自ら刺して右へ2かい?回り果てるのですが、おじさんが舞台に客席からやって来た記憶が、、その時は踊る事で1杯いっぱいだったので💦、ですがこの年になった今、その気持ち解ります。踊りの出来はともかく、伏して来た思いを出せたので、お礼が言いたかったのかも、、驚いてソデに下がってご免なさい🙇 今なら握手して、大変な時代を生き抜いた方のご子孫、長生きしてね!と言えるのに。私が言われる立場ですわ🍀
この教訓なのか?共生センターがあり、オノヨーコさんの平和メッセージ、そしてJICA二本松訓練所があり、平和のために頑張っている場所になりました。犠牲をぎせいで終わらせないために私たちにできることは…
ご視聴並びにコメントをありがとうございます。
二本松少年隊の歌や踊りがあることはCZcamsで拝聴し知ることができました。
二本松少年隊の存在を知るに至り、メジャーである白虎隊に対して刺し違えても敵将を倒さんとした、今なら小中学生の少年たちの心情に何とも言えぬ思いを感じてしまいました。
双方に正義があり、戦い意義があったのでしょうが、いずれにしても戦争は、特に内戦は悲しみを感じます。
地元です。少年隊の話を聞くたびに
胸が痛くなります。
泣けました。
ご視聴並びにコメントをありがとうございます。
最後の最後まで故郷を守ろうとして命を散らせていった少年たちには胸を打たれますね。白虎隊のようにメジャーにならなかった理由も、恥を忌む日本人らしくて共感を覚えます。