徳川家康は、どうして征夷大将軍になったのか?
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- čas přidán 19. 11. 2023
- #どうする家康 #歴史解説 #戦国時代
※概要
関ケ原の戦いに勝利しても、徳川家康は豊臣家のナンバー2だった!? 家康さんがどうして征夷大将軍になったかの解説動画です。
2023年、NHK大河ドラマ「どうする家康」解説動画です。
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今日のお話、凄く納得‥そういう事か😳‼️と頷きながら拝見しました。関ヶ原の戦いを豊臣カンパニーの専務争いとおっしゃったのが、ピカイチわかりやすかったです🙏❣️家康の狸振りもなかなかですね。今日も、ありがとうございました。
豊臣カンパニーからの脱却の経緯は、葵徳川三代でじっくり描かれてましたね。
今回の大河はヘタレな家康さん時代から丁寧に描かれていたから、康政くんが
「殿もあれ(秀忠さん)ぐらいの歳はどれだけ頼りなかったか‼️」
っていうセリフはずっと観てきた視聴者にはめちゃくちゃ納得でしたよね😂
物凄くわかりやすかったです!
「嫌われなされ!」と酒井忠次さんに言われてましたものね
わかりやすい!
本当にやらなきゃいけない事、(江戸の整備も含め )が多過ぎて 老いとの戦いだったのでしょうね~
本当に狸っぽい家康殿だけど、千姫にはデレデレなの笑っちゃいました( ^▽^)
「殿を守って死ぬのがわしの夢じゃ!老いなど認めん!」
あまりにも強すぎたために、自らの夢を果たせなかった男、本多忠勝
最高にコメディでもあり、悲劇でもあり…。そして、最高にカッコ良いです。
今回のオープニング凄く良かったですね🎵🎵🎵
豊臣秀頼の成長を刻む柱の傷……その柱に家康を護ってきた古くからの家臣達が、亡くなっていく度に赤い刀傷が付く(涙)
平八と小平太の槍試合、泣けました((T_T))
またオープニングの雰囲気が変わっていてびっくり。ただピアノだけになったのは殿をよく知る人物が佐渡守だけになった寂しさを覚えた。
年の進みを秀頼の成長と一緒に、柱に刻みながらとしたのは面白かった
佐渡守の他にジャイアン守綱がいたわw
「徳川は武家の棟梁、豊臣は公家」って言ってましたものね…。わざわざ詳しく言わなくても淀殿が納得してくれればいいな(しないだろうな)…という若干の諦めモードが面白かったです。笑
家康さんは学習能力があったということですね
本編でも、「アレ(関ヶ原)は所詮、豊臣家中の仲違いの戦(いくさ)」と家康が言ってますからね。
淀殿は、ドラマでは関ヶ原で家康が斃れるのを望んでいましたが、実際は中立を保ってます。三成たちへの軍資金は無かったとされてますし。
徳川vs豊臣はあくまで大坂の陣ですね。
その、用意周到さを、「将軍職、どの辺に落ちてるとるか、探して来ましょうかの」の一言を正信に言わせて表してるんですね。いやー古沢さん上手いなー。
信長・秀吉の強引な手法の失敗を見てきた年の功もあり、手堅い老獪な手を一つ一つ打ってきたというのが、
大変分かりやすく説明されていて楽しかったです。
御成敗式目のところのラットちゃんの分かってるふりwはわかりやすいwww
今回のオープニング、オーケストラがピアノのみの演奏に変わってて感動した!ピアノだけなのにオーケストラに負けない豊かな響きで泣いてしまった。
個人的には三河家臣団がほぼ全員退場と相成る寂しさを感じ取ってました
ピアノバージョンも良かったですよね。
正直、違和感あったなぁ…いままで慣れしたんだオープニングが変わったことに…
でもこのコメ欄みて、そういう考え方もできるのかということで益になりました🎉
@@usachan-iy3xe5de8z前回だけの特別バージョンなのでまた元に戻りますよ
@@user-vd7gp9xm8y そうだったんかいXD
家康さんが将軍になったとき天下人は二人いたということですよね。秀忠に引き継いたとき淀の方の怒りも想像できなくはない。でも自分が淀の方なら完全に絶望することもないかなとも思う。秀忠さんは自分の妹の旦那、家康さんさえ亡くなったら、凡庸の秀忠だったら豊臣家臣さえ団結すれば勝てなくはないかなとも思った。でも、歴史上やはり家康さんが一枚上手でしたね、秀頼さんと会ってその利発さを感じて、だから大坂の陣で豊臣家を滅ぼしにかかり、その後長い江戸幕府の安寧を築き上がった。流石の一言です。
色々 人生経験してきた家康さんさっすがですね。うまーく自分の思いを叶えるように手立てしてますね🤔🤔
過去の失敗から学んで着実に実績を積むこの用意周到なところが神君・徳川家康なんですね。我々も学ばないといけませんね。
家康さんは若いときから大名で第一線で戦ってきたうえに、忠義に篤く百戦錬磨の三河家臣団がついてますから
用意周到で老練な名人芸な感じがします。
あと、「織田がつき羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」と言われますが、
家康さんからしたら「わしは織田と一緒についているし、羽柴といっしょにこねてもいるわ!」
って思ってるのかなと。
確かに、うちわで仰いだり、杵持ってる人が疲れたらお茶出したり。なんならもう一個の臼有るからそっちは一人でやってみたいなこと言われたり。
きりゅうさんの、最後のセリフ
「外堀から埋めていく…」
フラグですかねぇ🤣🤣🤣
歴史好きなわたしも、天下分け目の関ヶ原を勘違いしていたのを今回初めて気づきました❤
あとは、普段の言葉遣いもなんとなくきりゅうさんっぽくなっている自分に気づきました笑
最近は、Xとメンバーシップへのバトンを繋ぐ時の、らっとさんとくーさんの大喜利のようなやり取りもぱっちり決まっていて、そこも物凄く楽しみにしています❤
学生の時にきりゅうさんに日本史習いたかったです😄
人間模様を含め、社会勉強になっただろうに
でも今の年齢だから、面白いと感じるのか🤔
面白すぎて三年間で近代史までいけるかどうか😅
徳川家康の生涯である1542〜1616年だけで1年間授業できるから、3年間どころじゃ済まなそう笑
於大の方が、この頃まで存命だったのがビックリです。
狸と狐の化かし合い。これからも楽しみですね。
会社に例えて頂いてめちゃくちゃ分かりやすい
個人的にこの三成との戦いの時、寧々さまはだうしていたか そのあとどうしたかを知りたいです。
お茶々が寧々さま差し押いて幅きかせてる感じなので
2:53 5:06
分かりやすくて面白味が増します
この前どうする家康観たよ、家康さんが、将軍なりましたね。歴史で、習ったり、大河ドラマ観たりで、知りました。ちなみに、成長した秀頼さん役作間さん出ましたね。背が高くてイケメンでした。🐯史実では、秀頼さんは背が高い人だったのかな?後将軍は、現代なら、何ですか?
いつも楽しく拝見させて頂いています😊どうする家康の解説を聞いて、小学生レベルの歴史が増し加えられた感じです。ところで初歩的な質問ですが、朝廷の右大臣、左大臣、内大臣の違いはなんですか?あと戦で勝って恩賞を受けるとき、〇〇何十万石って聞きますが、土地にその価値があるのか、石高とどういう関係性があるのか、とれる米の量なのわかりません。すみません、教えていただけたら嬉しいです。これからも頑張って下さい😊👍
いつも動画楽しく拝見させていただいております!
私は現在大学で日本史を学んでいる現役大学生20歳です!
20歳の私でもとっっっっても楽しめておりますっ
いつか私の推し、伊庭八郎の解説もやってくださったら嬉しいなぁと思っております。
請西のお殿様や、人見勝太郎、西征日記のおちゃめな八郎さんを是非是非広めてください……!
おお! 伊庭八郎の西征日記はいいですよね~!!
@@kashimashi_rekishi_ch
はわわ……返信がっっ!光栄です……!
「赤貝の差し入れがきたっ!」って書いてある次の日から「腹痛」って書いてあって……笑
絶対当たったでしょ!!!ってやつとか
今日は虫歯で稽古を休んだ
とか書いてあって、当時の等身大の伊庭八郎を体感できるとても良い日記ですよね……!
ドラマでも家康さんが「関ケ原は豊臣の内輪もめ」って言ってましたものね(笑)
はい、家康公のではなくて、ねね、つまり北政所さんが「豊臣家の内輪もめ」と言っていましたよね。
家康は先に源氏長者を獲得してから征夷大将軍になったのでありますからね~
家康のジワジワは、関ヶ原から大阪の陣まで14年という年月を老年である家康が使ったことからいかにジワジワかが改めて分かる
14年遡って1586年の出来事を調べましたが、丁度家康が秀吉に臣従した年のようです。
そこから1600年までに、小田原攻め等の統一事業、朝鮮出兵などがあり、ぎゅっとしてた事を考えると、いかに長い時間をかけてたのが分かりますね!
更に14年遡って1572年だと、三方原の戦いだから、もっとギュッとしてますけどね!笑
@@mocci3049 ぎゅぎゅっとしてますね!
関白を九条家にすることによって公家にも恩を売るあたりのぬかりなさ…!
摂関家は関白を取り戻したいよね。
徳川カンパニーで社長職を二代目に譲るとき。
「仕事が成功した時には部下の手柄」「失敗した時は上司の責任」
現代の経営者たちに言ってやりたい。
とっても判りやすかったです。こんなに有名な話でも、新しい歴史研究で、変わってきてるんですね
いつも、楽しませて頂いてます💗ありがとうございます。
お三人のトークを聞いてると日々のうさがふきとびます☺️
ところで、きりゅうさん、教えて下さい。子供の頃から心にひっかかっていながら、特別不便もないのでスルーしてきた疑問なのですが😂、ドラマの中に時々出てくる日本地図や大名の領土配置図について、当時、日本全土の姿や方位など、どのようにして、どの程度、把握されていたものなのですか?
ほぼ正確な日本地図を伊能忠敬が作るのは、確か200年くらいあとだと思うのですが。
今回の動画を拝見し、関ケ原は豊臣家臣団の内輪もめだ、というお話を伺って、「秀忠遅参」は家康の作戦のような気がしてきました。徳川本体はほぼ無傷で戦を終え、主に消耗したのは豊臣家臣団だったわけですから。
「管理人材が真空状態みたいな時期に徳川集団に
アウトソーシングを請け負ってもらったらいつの間にか
乗っ取られてしまった」
好機を捕まえられてやっぱすごいですね家康。
かしましちゃんねる心地良すぎて、もはや最近聴いてないと落ち着かないです😂
面白いお話、ありがとうございます。近代的カンパニー制度の視点から関ヶ原を伺い知ることができて、目から鱗でした。
会社でも、専務と常務との戦いはありますね。
特に名前だけの「何もセンム」に対する反発は、大きいかな
北川茶々さまの家康に対する⇒「これからも秀頼の【代わりとして】頼みまするぞ!(分かっておるな?)」のお言葉も虚しく潰え去りましたね💦💦💦きりゅうサンの解説はほぼ完璧だと思います!って私ごときが生意気ですけど😅じわじわ戦略、納得でした。秀吉さんも一見強引に見えても織田信雄さんを乗り越える為に(実力+権威)慎重に事を進めましたからね。北条討滅後の転封拒否に「チャンス!」とばかりに信雄さんを改易しました😁もう証明は不可能ですが、秀頼・茶々サイドにしても天下の大権返上は少し無理かな?でも会長職待遇か縁戚関係からの準親藩的な特別待遇の地位くらいは希望していたのでは❓と思いますが・・・しかし、のちの徳川親藩も将軍空位の備えの役割はあっても、幕府政治の参加は許されなかったはず。【高家】的存在の大名(そこそこの領地)・・・あり得るか❓他に落し所はなかったのか❓でもこういう時は「家名が続けば結構です!」くらい低姿勢でイカないとダメですかね・・・
家康さんが狸にされるのは、豊臣氏に対する判官びいき+権力に対するやっかみの為、仕方ないよね😅明治政府以降の徳川叩きの影響もあるし、堅実さは裏を返せば地味で見栄えがしない。「太閤さん」にくらべればどうしても人気度で・・・でも今は、だいぶん見直されているんじゃないかな🙂
秀頼が一大名として生きる道を選んでいたら、家名は残ったかもしれないんでしょうけどね~。
@@kashimashi_rekishi_ch ありがとうございます。でも【新・摂関家】のプライドがやっぱり邪魔をしますかねぇ😅百万石の大々名と、さらに隔絶したステータスですから・・・そこが他の生き残りを計った武将たちとの違いでしょうね・・・
家臣同士の闘いということでしたが、徳川ファミリーのみんなは「ついにこの日が来ましたな」って喜んでましたよね。
この時、徳川ファミリーだけは裏の目的を暗黙の了解でわかっていたと言うことなのでしょうか?
質問なのですが、当時の書物・手紙等で徳川家康のことを狸(もしくは狐や他の動物でも)と書いた(例えた)資料ってあるのでしょうか? PS.髪型のせいか、く~さんがいつもより若く見えます。
「頼朝の源氏」というより「足利一門の新田の本姓」というニュアンスだったんでしょうけど、豊臣姓での将軍任官の先例を作らないためという側面には気づきませんでした。
鳴くまで待とうホトトギス…ですね〜
豊臣カンパニーで家康は副社長、三成は総務部長クラスでしょう。
きりゅうさん、ラットちゃん、クーさん、いつも楽しい配信ありがとうございます。
二つ質問なんですが。
関ヶ原後の豊臣子飼いの大名の石高を爆増させたのは、豊臣家臣団の関ヶ原後にお取潰しになった家の浪人衆対策だったとも聞いたことがありますが、その点はどうなんでしょう?
あと、かしまし歴史チャンネルさんのお三人さんの馴れ初めがいつも気になっていました。
とても楽しく仲の良い関係だなと見ていて思ってましたが、このチャンネルを開設するにあたり、どうやって集まった三人さんなのか…また、最初に出会いはなんだったのか…いつも興味津々で見ていますので、その辺も教えて下さ〜い!
よろしくお願いします。
亀の甲より年の功。
健康で長生きして経験を積むという事はかけがえのない事ですね。
13:49 迫力凄いなー、怖いわ〜。😖
しかし秀忠役の森崎ウィンさん、本作では狸の親父を相手で、去年の作品である仮面ライダーギーツでは狐の主人公と対峙・共闘と、化かす役と関わりある縁でもあるんでしょうか😅
北政所が尼装束でないのが気になった。あの時はまだ出家前だったのかなぁ?🤔
今日も楽しい解説ありがとうございます😁ドラマの中では征夷大将軍の座を落ちてたから拾ってきたみたいになってたけど、実際はどうだったんですかね、簡単に征夷大将軍になれたんでしょうか🤔
なんか今回徳川幕府開闢って言ってましたが初めて聞きました😅
ははは、三成と吉継という強力な官僚を一度に失ったからね。最後の最後に片桐且元も引っぺがしているしね。官僚の重要性を理解していた家康の勝ち。
今回も解説ありがとうございます。
関ケ原と天下人の意味合いの話はやはり誤解が多いですね。私も昔は誤解していました、というか小学校の教科書くらいだとまるで徳川豊臣戦争のように書いてました。「後見人として実効支配」というのがやはり伝わり辛いのでしょうか。幕府設立も豊臣との全面戦争宣言ではなく(これも結構誤解されてる?)持ち株会社豊臣ホールディングスの子会社として事業会社徳川実務を作った形式でやっていますし。
白兎を支えていた家臣二人、涙の退場と相成りましたね。兎を助けてくれた者たちの想いに応えようとして狸になっていく、それも何だか悲しい話ですが、豊臣を睨む忠勝が同じ目で「我が君、しっかりなさいませ!」って言ってきたら止まれないよなぁ…
将軍職と補任と同時に、あるいは前後して、右近衛大将と源氏の氏の長者も付いてくるんですが、明治以降も源氏の氏の長者は徳川家なんだろうか、足利や吉良さんに返したんだろうか???
大河を見ながら夫婦で「ん?関ヶ原ってなんだったんだ?」って話になり答えが出なかったんですけど…
この動画でよくわかりました✨
夫に説明しなくっちゃ!
関ヶ原の戦い前は、秀頼の代理として土地分配をしていた家康が、戦後は豊臣直轄領を含む地を分配し、京都、伏見、堺を支配し、豊臣恩顧の大名は西国に領地を与え、江戸と京の間は自身の信頼できる大名の地とすることによって、実質的統治を始めているのはさすがですね。昨日の小和田先生の動画でも、家康の征夷大将軍就任が豊臣サイドを刺激しないように、直後に秀頼と千姫の婚儀を行ったと言われていました。頭のいい家康、この婚儀をカモフラージュにして、将軍就任を目立たなくさせたのでしょうね。さすが狸親父の策謀です!こういうやり方を見ていると、慎重に機会を待ち満を持して決行した家康の天下統一は、決して棚ぼた式の”泣くまで待とう、ホトトギス!”ではないことが、よく分かります。
関ヶ原ひとつにこんなにいろいろな思惑などがあったとは…本当に歴史って面白い!私が知ってたことはなんとなくだったんだなぁ😂
ところで、茶々さまのお着物がなんか凄いなぁと思ったのですが、打掛の下のお着物の襟がなんか十二単みたいに重ね着してて…十二単って打掛を何枚も重ね着してる印象があるのですが…まぁ豪華さがよくわかりますけどね😅
武田信玄公と徳川家康公はムツリですよね~根回し、裏回し、更に入念。信長公、秀吉公のあっさりしていなく感じます。
関ヶ原の論功行賞は秀頼サイドには無関係に家康サイドが勝手?に行ったのでしょうか?
いつも楽しく見させて頂いています。
あれ?豊臣姓でしたか?羽柴姓だったと、聞いたおぼえがありますが?
さらなる家臣の退場が、胸に迫る回だった。幾多の苦難を乗り越え、多くの同朋を亡くしてきた本田忠勝と榊原康政も老いが近づき、それでも家康、後継者の秀忠を思い気遣う様子が、自然に見る者の心を掴んだ。二人の槍合わせのシーンは、秀逸だった。その後の昔を懐かしみ、遠い目をして微笑む場面は、胸に迫った。最後まで生き残った二人だからこそ分かち合える想い、2俳優の名演技によって清々しい幕切れとなった。
茶々に保護されている秀頼と二代将軍となる秀忠の対比も、良かった。ぬくぬくと不自由なく育つ前者に対し、父に叱られ続け本多正信に”偉大な凡庸”と評される後者。だが、秀忠は”いかに理不尽でも、結果の責めを負うのが、己である主君だ!それこそが、役目だ!”と帝王学を家康から伝えられる。父こそが与えられる実践的な教えだと感じた。
松潤の家康があまりに老いを感じさせないので、他の俳優の名演に水をさしているのが、残念だ。最後の”ツアーズ”は、コンパクトでよくまとまっていて、理解しやすかった。
歴史とは、全然関係ない話ですが、、
今日のクーさん、
前髪チョット出して可愛かったですね〜
ひょっとしたら、、マスクを取ったら、若く可愛い美人??
当時の流れがよく分かりました。豊臣カンパニーがわかりやすきったです。ところで、この時期の朝廷ってどうだったんでしょうか?戦とかどういう立場で見てたんでしょうか?
徳川に事務処理できるのが一杯いますよで、正信Jr正純が出てきましたね
オマケのところ、九条家に関白職に就かせる件、家康は、征夷大将軍就任とともに、"源氏長者"にも朝廷から認めてもらってます。これがデカかったのでは!
足利義満の前例で、武家、公家共にトップになるみたいな!(豊臣氏は公家)
征夷大将軍だけでは、足利氏が権威を落としてしまったし!
どうする家康では松潤が主役なんで豊臣家は悪に見せるはず😅
きりゅうさんが動画で言ってる通り、やり方が狸ですねww
家康が「狸爺」ならば淀殿は「女狐」。化かしあいの勝負は狸に軍配が上がりました。
狸には、本多正信・正純親子という貉が着いていたのも大きいですね。
源性に戻した際は「征夷大将軍になるつもりだ」と公家の日記に書かれたり、噂になったりしてますよね
それにしてもお爺ちゃんの清康さんの先見の明……いえ、さすがに征夷大将軍になるとは思ってなかったでしょうね😆
関ケ原の戦を「豊臣VS徳川」と誤解されてる方結構居ますよね。
なんならその線でドラマ作られたりすることもたまに有って「オイオイ」ってなることありますw
織田が豊臣、徳川の配下になったように秀頼も徳川の配下になる選択出来てたら摂関家の一つとして「公家豊臣」となるか、足利、今川のような「高家豊臣」みたいな感じで生き残れたのではないでしょうか?
ラット~!
ちょっと
呼んでみただけ~🎵
はーーーーーい!!!
惚れてまうやろ~‼️
質問です。根城というお城でガイドをしているものです。この前ガイドの一人のおじさんが、久能山と日光東照宮に行ったが、家康の遺体はどっちにあるんだろうと言ってました。私は久能山にあると思っているのですが、きりゅうさん教えて下さい。 あとお三方、ぜひ根城のお城も見にきてください。
御三方こんばんは
(たらればですが)
秀吉とねねさんとの間に子ども(嫡男)がいれば秀吉死後は40代だろうから政権基盤は固まっているだろうから分裂対立もな かった
「秀次事件」もなかった(嫡男がいるので養子が不要)
なので「関ヶ原の戦い」なんて起きなかったでしょうし、、、
「関ヶ原の戦い」がなければ毛利氏の減封もなかったわけで、
回り回って明治維新は起きたのか❓
ってなことを妄想したことあります
セーラーマーズ怖かったね🤐
いつも分かりやすい解説をありがとうございます。質問ですが、以前どうする家康の時代考証の小和田先生が「たぬき親父」「腹黒」とかはのちのち幕府を倒したい打倒江戸幕府の人々が広めたイメージだとテレビ番組(NHK)でおっしゃっていました。もともと秀吉が武力や人質攻勢でむりやり徳川を配下にしたのに、なぜ、家康は悪いイメージでたとえられるのでしょうか?
細かい話で済みませんが、山内一豊が関ヶ原の戦いの恩賞でもらった時点での土佐国の石高は、長宗我部氏が太閤検地で算出した9万何千石かで、その後に山内家が多分に見栄を張った石直しを行なって20余万石にしたと思うのですが、どうでしょうか?
徳川家康の征夷大将軍の辞令(宣旨)の紹介
内大臣源朝臣
左中辨藤原朝臣光廣傳宣
權大納言藤原朝臣兼勝宣
奉 敕件人宜爲征夷大將軍者
慶長八年二月十二日
中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉
(訓読文)
内大臣源朝臣(正二位 徳川家康 62歳)
左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広 蔵人頭正四位上 25歳)伝へ宣(の)り
権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝 武家伝奏正二位 46歳)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに
件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍と為すべし者(てへり)
慶長八年(1603年)2月12日
中務大輔兼右大史算博士小槻宿祢孝亮(壬生孝亮 従五位下 29歳)奉(うけたまわ)る
なお、同日ほかに
源氏長者補任宣旨二通、淳和奨学両院別当補任宣旨、牛車乗車許可宣旨2通、随身付与宣旨、右大臣任官宣旨が
発行された。
秀吉は身分の関係で将軍じゃなくて関白になったのに、秀頼は家康から譲られて将軍になれたんですか?
豊臣を滅ぼしたかったのは家康というよりも秀忠だと思う。二条城での対面で自分と秀頼の年齢差を思い知って、確かに家康はヤバいと感じたとは思うけど。
やっぱり征夷大将軍は、本多正信が考えたんですかね?
家康一族はいちおう代々、新田流徳川だと信じていたらしいが、そのあたりは曖昧
らしく、幕府設立にあたってはやはり確固たる「源氏の血筋」というものを強調し、
画策したようだ。秀吉も家康も朝廷に多額の金子をはらっているわけだから、別に
源氏の血筋に拘らなくてもよかったと思う。朝廷は信長(出自は平氏)にも将軍打診を
していたわけだから、朝廷献金ができる絶対権力者ならOKのはずだ。
個人的には家康が将軍となり、将軍職を秀頼に譲らずに徳川世襲にした件に関しては
そもそも秀吉が将軍ではなく関白職に就いたため、そちらは豊臣、将軍職は徳川で…
と豊臣側に言い切ったのだと思う。それで筋は通るし、関白は将軍よりも名目上は上の
立場なので。
徳川より他の武家に頑張ってほしかったな
おもしろいなあ。私も仲間に入れてほしいです。ニックネームもトーチャンでいいですから。
政権を取るには、一筋縄では行かないんですよ。時には汚いこともやらなくてはいけません。だから、私は、家康が特に腹黒いとは思いません。清く正しくやっていては、政権なんて取れませんよ。それどころか、他の権力者に利用されて捨てられるだけです。勝つか負けるか、生きるか死ぬかの世界だと思います。豊臣家の統領が淀殿だったのが、豊臣家の不幸でした。これも淀殿の母のお市の方の怨念だと思います。淀殿は表向きは豊臣家の統領でしたが、豊臣家が滅亡する方へと導いて行ったような気がします。
要するにグリプス戦役ですかね。
まあ信長、秀吉の頃は外敵がいたから物事を強引に進める必要があったけど、家康は関ケ原以降は実質的な外敵はいないわけで、強引にやる必要がないからですね。後は己の寿命との闘い。
幕府という名称は江戸後期に作られた言葉で、徳川幕府が家康征夷大将軍就任とするならば、認識の統一性で鎌倉幕府、室町幕府も頼朝、尊氏が征夷大将軍に就任した時にすればいいのにと思っています。
きりゅうさんに質問します。中国で文武百官と言いますが文官も戦いに参加したのですか?
淀殿に家康の本性を助言できたであろう人は三成だったんでしょうかね…家康も三成には自分の狸は通じないとわかっていたから先に潰したのかな😅
得川が平氏じゃなく源姓で良かったね
質問です。根城という城でガイドをしているものです。この前ガイドのひとりのおじさんが、久能山と日光東照宮に行ったが、家康の遺体はどこにあるんだろうと言っていました。私は遺体は久能山にあると思っているのですが、教えてください。 お三方ぜひ根城のお城も見に来てください。
メンバーシップで話してるんですけどねw
関ヶ原合戦で西軍が破れたのは、確かに、小早川、金吾中納言の1万五千の大軍の裏切りが大きかったのですが、大谷公がそのために、配置した、信頼していた、
赤座他4武将の裏切りが特に大きかったです。この4武将が、西軍としてしっかり仕事をすれば、大谷隊は小早川勢の大軍を追い返し、打ち破ったと思います。その4武将が西軍を裏切り、大谷隊におそいかかったわけですから、大谷隊は、まわりが敵だらけにかこまれ、おそいかかったわけですから、いくら、名将大谷公でもとても無理です。
もし、4武将が裏切らなければ、小早川勢を大谷隊は打ち破り、追い返したと思います。少なくとも、西軍は負けなかったと思います。それと、吉川広家は動いてはならぬと大音声で叫び、毛利勢を動かさなかったのは、これも裏切りです。毛利の1武将にすぎない、吉川広家にそんな権限があるのか!!毛利の大将は毛利輝元です。毛利勢は関ヶ原合戦では、全くたたかっていません!!そして、四国の長宗我部は毛利と別行動をとってほしかったですね!!そして、橘宗茂が関ヶ原に間に合えば、西軍の大勝利だと思います。
公家が関が原が終わった時、征夷大将軍に推挙した。しかし家康は関白より下の征夷大将軍では、不満なので、源氏の長者も欲しかった。2003年に源氏の長者になったから征夷大将軍になったのだ。
2年後秀忠に将軍を譲ったが、源氏の長者はゆずらかった。
三成は専務というより、総務部長って感じ。んでもって、力は弱いけど毛利が常務。
どちらにしても、家康専務な力が強すぎのイメージ。
関ケ原の合戦 小早川秀秋『小早川は西軍として働く!!』下臣『石田三成様からのろしがあがりました。』小早川秀秋『待ちかねたぞ!!ただちに、出陣の下知をいたせ!!』下臣、稲葉正成『なりませぬ!!』下臣『徳川家康様からのろしがあがりました!!』下臣、稲葉正成『殿(小早川秀秋)!!出陣の下知を!!』小早川秀秋『ならぬ!!敵は東軍だ!!』 小早川秀秋公『敵は東軍』という。下臣、稲葉正成『敵は西軍』という。 石田三成公、徳川家康公、共に、イライラ、イライラ!!石田三成公『小早川は何しておる!!のろしがみえんのか!!』徳川家康公『秀秋のコワッパめ!!東と西をはかりにかけておるのか!!』石田三成公『もう一度、小早川にのろしを!!』徳川家康公『小早川に鉄砲を打ちかけ!!それでも動かねばこの家康、小早川をけちらしてくれるわ!!』稲葉正成『殿!!このままでは家康様と戦うことになりまする!!』といって稲葉正成、先陣をきって西軍に攻撃かけるため、出陣してゆく、ほとんどの下臣もその流れにおされ、出陣してゆく、小早川秀秋『小早川のあるじは、この秀秋じゃ!!わしに背いて出陣するとは何事だ!!』といって、『是非もない』といって秀秋もしかたなく、出陣していく!!かくして、小早川の裏切りで、西軍は大敗して、天下分け目の戦い、関ケ原の合戦は東軍の大勝利で幕をとじることになる!!関ケ原合戦後、秀秋公は再三にわたって命をねらわれる!!秀秋公は下臣、稲葉正成を向かって、『わしは東軍に味方するつもりはなかった!!わしが西軍に合力すれば、石田三成殿が勝利をおさめ、わしは関白になっておったわ!!正成!!わしが命をねらわれるのも、うぬの勝手な行為のせいだ!!』小早川秀秋公は、『貴様の裏切りでわれらは、主君、城もなくなったこの恨みは必ずはらしてくれようぞ』といって宇喜多公の下臣たちに暗殺されてしまう。
狡猾なタヌキ 豊臣直轄地が関ケ原後、なぜか減っていたのは知っていたが勢力を巧妙に削ったとは
もともと家康は250万石で関東に追いやられていたが130万石くらいから増えすぎで、この時点で豊臣直轄より大きくこれは秀吉のミスだと思うが、関ケ原の結果、直轄400万石になっているからすでに豊臣は詰み、あとはタイミングだけで満を持して大阪の陣か
豊臣家が家康に臣従を表明したら滅びなかっただろうが、淀君が受け入れるわけないな
センスのなさが実際に戦わない女性らしい
秀頼は淀でなく男の家臣が地政学などをサポートすべきだったな
漫画「キングダム」でも描かれていたように、「大将軍」とは戦地(遠征地)において多大な行政決定権を付与された重職を指します。
つまり、即応を求められる戦時だけ、軍団に限定的治外法権を認めるのです。
その結果そこに生ずるのは、戦争時に限定して発生する「政府の外にある戦争特化のミニ政府」でしょう。
それが「幕府」です。
しかし、この戦時特化ミニ政府が何百年も常態化する(そんなの普通に考えたらクーデター軍事政権だ!)のが、日本史の特色であり、不思議なところだと思います。
そして、本来世に責任を持つべき政権は骨抜きにされ、限定的責任しか負わない「将軍を頂点とする私的軍団」が事実上の国政を行う。
まさに日本的な組織の作り方は、これを原型としているのかと思わされます。
しかし、豊臣政権は少し違ったのでは?と最近思い始めました。
本気で中央集権国家を作る夢があったのかもしれない、と。
信長とも家康とも、なんなら清盛とも頼朝とも違う国家の設計イメージが、もしかしたら秀吉にはあったのかもしれない。
お話を伺いながら、そんな妄想をしていました😝💦
三国志とかもあれは一応漢王朝の主導権争いという物語でしたよね 曹操が死んで漢王朝が禅譲されてから本当の意味での『三国』志になる
私だったら、豊臣カンパニーより、徳川カンパニーの方に入社したいです。
徳川カンパニーの方が色々と安心出来そうなんで。
なぜ、徳川家康さんが、征夷大将軍になったのは、長期政権につなげたかった。そのために、幕府を開きたかった。鎌倉幕府、室町幕府も征夷大将軍になって幕府を開いたから。豊臣秀頼様は、関白になり、第3代関白になり、大阪に政府か関白府をおいて天下をおさめればいいと思います。征夷大将軍は武家の棟梁で、幕府を開けますが、公家の棟梁ではありません!!関白は武家と公家の棟梁ですから、関白府を開いて政治をおこなって行けばよいと思います。それに、関白は征夷大将軍より、はるかに、位は上です。
関ケ原の戦いは天下分け目の戦いですが、石田三成対徳川家康の戦いですが、裏切りによって西軍が負けてしまったので残念でなりません!!裏切りもなく、東西、正々堂々と戦って、勝敗をきめてほしかったです。小早川の裏切り、赤座など4武将の裏切りは決してよろしくありません!!小早川秀秋はいろいろ恨みや憎しみがあったかもしれませんが、裏切りをすれば、東軍西軍の両軍の武将から、無視され相手にしてくれません!! 裏切り者はだれからも信用されません!!小早川秀秋は西軍として、伏見城🏯をせめているわけですから、最後まで西軍として戦うべきでした。また、秀秋は豊臣秀吉公が天下人になったおかげで、今の地位につけさせてもらっているわけですから、今の地位におれるのは全て豊臣秀吉公のおかげなのです。
もし、豊臣秀吉公が足軽や、百姓をやっていましたら、秀秋公は、小早川のこんな高い地位につけなかったでしょう。全て、豊臣秀吉公のおかげなのです。ですから、当然、西軍として、がんばり、最後まで西軍として戦うべきでした。太閤殿下のご恩を忘れて、秀秋公は西軍を裏切り、太閤秀吉公がたった一代で、努力を重ね、築き上げた天下豊臣家をつぶすことになってしまったのです。それと、橘宗茂が1万5千の兵をつれて、関ケ原にきてましたら、西軍は勝利をおさめていたでしょう。徳川秀忠公は関ケ原に遅参したのではなく、すでに、真田昌幸、真田幸村、親子と場所は違ってましたが、すでに関ケ原の戦いをしているのです。真田昌幸、真田幸村 対 徳川秀忠です。
最後に伊達政宗公を西軍にすれば、上杉景勝公が2万7千の兵をつれて、関ケ原に参上したでしょう。🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉❤❤❤❤❤❤❤😊😊😊😊😊😊😊
関ヶ原合戦の勝敗を決めたのは、確かに、小早川、金吾中納言の裏切り、1万五千の大軍の裏切りは大きいかったのですが、赤座他4武将の合計、6千の軍勢の裏切りが特に大きかったです。大谷公は、小早川の裏切りに備えて赤座他4武将をおいたのですから、その4武将までが裏切っては、名将大谷公でも、とても無理です。大谷隊はまわりを敵にかこまれ、おそいかかってきたわけですから、たまったもんじゃありません!!もし、信頼していた、西軍である4武将が裏切らなければ、いかに小早川が一万五千の大軍でも大谷隊は頑張って小早川勢をおいかえし、打ち破ったとおもいます。そうすれば、西軍は負けなかったと思います。最終的決着がつかなかったと思います。が、そうしているうちに、橘宗茂が関ヶ原に到着すれば、西軍の大勝利になったと予想されます。それと吉川は動いてはならぬと大音声で毛利軍を止めたことも裏切りです。毛利輝元が大将なのに、なんで1武将の吉川にそんな権限があるのか!!毛利は関ヶ原で全くたたかっていません!!これも、西軍が勝てなかった要因です。
関白も1代関白は豊臣秀吉公 2代関白は豊臣秀次公、3代関白は豊臣秀頼公以下続いていき、政府あるいは、関白府、日本府などをおいて、政治を行えば良いと思います。🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉❤❤❤❤❤❤❤😊😊😊😊😊😊😊
茶々は「秀頼が成人したら関白に」と考えていたのではないでしょうか。関白は天皇の代理人、征夷大将軍は天皇に任命される役職。関白の方が上だという理屈は成り立ちますから。
ここの3人の女性は、お花畑なので
茶々は優しい人と思うのかもしれませんが
実際には、種無しの秀吉の子を産むという怖い女なんですよね!しかも2回も!😂😂😂