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このアルバム、私の祖父の軍人時代の同僚、若しくは同じ師団の方のものです。ボート(本当はボートではなく連結式の仮設橋)を持ち上げている写真は40年前後、第14師団が利根川水系や霞ヶ浦で演習を行ったときのものです。私の祖父の軍人時代のアルバムに全く同じ写真とこれの前後、他のアングルからのものがあり裏にメモでそう書いてありました。
私の亡父と同年生まれです。大学卒業年も同じ、父も卒業と同時に応召、学徒出陣しました。このアルバムの持ち主の方が生還されたことを祈ります。父は陸軍の船舶特攻隊に配属され猛訓練を受けましたが、昭和19年半ばにはもう戦地に行く船がなく、出撃することはありませんでした。2003年に病気で亡くなった父は、私に、終生「いくさはいかん」と言っていました。(合掌
いつも有難う御座います。正に戦時下の学生時代。先人のお陰で私はなんと幸せな学生時代を過ごしたのか。有難う御座います。
主様の動画には、いつも「何か」を考えさせられます…ありがとうございました…
私の同窓の先輩方が日本の将来を憂い、戦中派として日本の幸多き未来を語っていたことはこのアルバムから感じました。65歳の私には想像もできない本気な日本国士(こういうと右翼と思われるが)であったと尊敬し、同窓であることを誇りに思います。この先輩は戦争に行ったのだろうか?無事だったろうか?どんな人生だったか?考えさせられました。
熱海の現在のシーンをインサートするためにわざわざ熱海に行ったのであろうと思うと頭が下がる。紹介された熱海3ヵ所、それぞれ結構距離もあるし。
熱海って昔は綺麗な所だったんですね。驚きました。
今回も貴重な写真の数々をありがとうございます。拓殖大学の創立経緯等とても勉強になりました。戦時中であって、当時の人々の笑顔もあり、生活があったのだなと実感します。言葉では言い表せない戦時中の苦境の中を乗り越えてくださった当時の人々のお陰で、私たちの命があること、戦争のこと、決して忘れてはいけないですね。
義父と同じ歳の方です。義父は無事シベリア抑留から生還しましたが、この方は無事戦地から戻られたのでしょうか。小田急TIMEさんのアルバムシリーズで、名もなき人の生きていた証を知る事が出来て感慨深いものが有ります。動画UP有難う御座います。
1922年は祖母が誕生した年熱海は女房の出身地隣町の伊東が私の出身地4:38 付近に初島が見えます祖父は熱海から初島まで泳いだよと言っていました 祖母はそんな訳ないだろうとツッコミを入れてました 優しい笑顔が絶えなかった祖父母と故郷を思い出しました ありがとうございました
昭和15年の物価はコーヒー15銭、駅弁30銭、蕎麦うどんが15銭です。昭和20年の駅弁が50銭とありますのでおそらくコーヒーが10銭、定食も50銭から1円程度かと思われます。
40年以上前、近くのマンションのごみ捨て場にこんな感じの古いアルバムがごみと一緒にぽん、と捨てられていました。出征時に家族と写したと思われる軍服姿のモノクロ写真に見入ってしまいました。色々な経緯があってその時まで所持していたご本人か、そのご家族が棄てることになった経緯を色々と想像してしまいました。自分が生きてきた歴史や記憶は結局、自分でしか所持できません。例え家族であっても共有なんてできやしません。この時の経験が基になって、人は生を終える時に記憶も歴史も全て一緒に全て持って行くものなんだと考えるようになり、記念写真というものを撮らなくなりました。
卒業証明書は昭和23年2月12日に発行を受けたので「紅陵大学」になっているのでしょう。昭和19年9月15日の卒業時点では名称は「拓殖大学」であったと思います。
通貨の単位が違ってます、当時の100円は大金です。(多分1円だと思います)彼は19年に繰り上げ卒業、実戦さながらの写真は幹部候補生時代のものだと思います。階級は曹長?軍刀持っていますから准士官以上ですね。最後の写真、配属先はどうも中国大陸の様ですね。シベリア送りになったのでしょうか、生きて帰れたのでしょうか。
戦死者が最も多い世代の方だったと思います。最後の写真は防寒服、北満 北支駐留かなと想像しますが。もし南方戦線に転出フィリッピン沖縄に行かれたら、、海路も危険、戦線も壊滅したのでどうだったかなと思います。卒業証明書が後日発行されていますので生き延びられたと思いたいです。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! ✨✨✨
この方は穏やかに天寿を全うしたのでしょうか、それとも・・。日本政府主催で大学生を戦地に送る壮行会が国立競技場で行われたのは、昭和19年。それからたった20年後に同じ場所で平和の祭典、東京オリンピックの開会式が行われたのですね。
5分12秒の値段は銭だと思います。100銭と書くことがあったか判りませんが、戦中の写真であれば間違いなく円ではありません。定食100円は戦後でも相当後。昭和30年代です。
戦死しなかったことは、めでたいことだ!私の叔父は、19歳で戦艦大和と運命を共にした。機関室勤務やったから、たまの甲板休憩が楽しみだったらしい。
過去は美しいもの、懐かしいもの、戻りたいもの、夢に出るもの、
そして過去は修正され美化されるもの,初恋のクラスメートの如し
戦争は絶対いけませんね。この方は無事戦後を生き続けていたんでしょうか?
私は戦後日本が平和、いや平和ボケしているんでは?と感じると以前鑑賞した台湾映画「KANO」を思い出します。
若いときの新平さん。当時をどんな風に語るのかな?昭和20年4月から写真がないということは。戦争に行って帰ることがなかったのでしょうか?
卒業証明書が後日発行であるようなので、生還されたのでは?北モンゴルであれば、根本博中将が司令官の軍師団では?ソ連軍、中共軍と戦いつつ、民間人と共に日本に生還した旅団です。司令官が自分の責任で、陸軍司令部の武装解除に従わなかったので生還できたのです。関東軍は武装解除を即刻やって、民間人共々、シベリアに送られました。根本博中将は、その後、台湾にわたり国民党軍を援助して中共軍を撃退しました。
アルバムの主様は、私が最初に剣道を教わった先生の世代の方とお見受け致します。私の先生は沖縄に行く船が無く生き残り、第二の人生を歩んだ、と…先生を想い出すきっかけになりました。ありがとうございました。
箱根駅伝などで耳にした拓殖大学の創設経緯が意外でした。結構意味深いですね。
この年代の男子学生ならば、「学徒出陣」されたのでしょうか?
02:54集合写真は、拓大予科生のものです。現代の1,2年に相当する学年で、年代的におそらく現在の小平市で撮られたものでしょう。花小金井駅前に予科は移転していましたから。映像の丸帽は予科生、角帽は本科或いは専門部ですね。紅陵の卒業証書は、学徒出陣されて戦後復員し、復学されたからでしょう。
この時代に定食百円は高くないのかなぁ。
このアルバム、私の祖父の軍人時代の同僚、若しくは同じ師団の方のものです。ボート(本当はボートではなく連結式の仮設橋)を持ち上げている写真は40年前後、第14師団が利根川水系や霞ヶ浦で演習を行ったときのものです。私の祖父の軍人時代のアルバムに全く同じ写真とこれの前後、他のアングルからのものがあり裏にメモでそう書いてありました。
私の亡父と同年生まれです。大学卒業年も同じ、父も卒業と同時に応召、学徒出陣しました。
このアルバムの持ち主の方が生還されたことを祈ります。
父は陸軍の船舶特攻隊に配属され猛訓練を受けましたが、昭和19年半ばにはもう戦地に行く船がなく、出撃することはありませんでした。
2003年に病気で亡くなった父は、私に、終生「いくさはいかん」と言っていました。(合掌
いつも有難う御座います。正に戦時下の学生時代。先人のお陰で私はなんと幸せな学生時代を過ごしたのか。有難う御座います。
主様の動画には、いつも「何か」を考えさせられます…
ありがとうございました…
私の同窓の先輩方が日本の将来を憂い、戦中派として日本の幸多き未来を語っていたことはこのアルバムから感じました。65歳の私には想像もできない本気な日本国士(こういうと右翼と思われるが)であったと尊敬し、同窓であることを誇りに思います。この先輩は戦争に行ったのだろうか?無事だったろうか?どんな人生だったか?考えさせられました。
熱海の現在のシーンをインサートするためにわざわざ熱海に行ったのであろうと思うと頭が下がる。
紹介された熱海3ヵ所、それぞれ結構距離もあるし。
熱海って昔は綺麗な所だったんですね。驚きました。
今回も貴重な写真の数々をありがとうございます。拓殖大学の創立経緯等とても勉強になりました。戦時中であって、当時の人々の笑顔もあり、生活があったのだなと実感します。言葉では言い表せない戦時中の苦境の中を乗り越えてくださった当時の人々のお陰で、私たちの命があること、戦争のこと、決して忘れてはいけないですね。
義父と同じ歳の方です。義父は無事シベリア抑留から生還しましたが、この方は無事戦地から戻られたのでしょうか。小田急TIMEさんのアルバムシリーズで、名もなき人の生きていた証を知る事が出来て感慨深いものが有ります。動画UP有難う御座います。
1922年は祖母が誕生した年
熱海は女房の出身地
隣町の伊東が私の出身地
4:38 付近に初島が見えます
祖父は熱海から初島まで泳いだよと言っていました 祖母はそんな訳ないだろうとツッコミを入れてました 優しい笑顔が絶えなかった祖父母と故郷を思い出しました
ありがとうございました
昭和15年の物価はコーヒー15銭、駅弁30銭、蕎麦うどんが15銭です。昭和20年の駅弁が50銭とありますのでおそらくコーヒーが10銭、定食も50銭から1円程度かと思われます。
40年以上前、近くのマンションのごみ捨て場にこんな感じの古いアルバムがごみと一緒にぽん、と捨てられていました。出征時に家族と写したと思われる軍服姿のモノクロ写真に見入ってしまいました。色々な経緯があってその時まで所持していたご本人か、そのご家族が棄てることになった経緯を色々と想像してしまいました。自分が生きてきた歴史や記憶は結局、自分でしか所持できません。例え家族であっても共有なんてできやしません。この時の経験が基になって、人は生を終える時に記憶も歴史も全て一緒に全て持って行くものなんだと考えるようになり、記念写真というものを撮らなくなりました。
卒業証明書は昭和23年2月12日に発行を受けたので「紅陵大学」になっているのでしょう。
昭和19年9月15日の卒業時点では名称は「拓殖大学」であったと思います。
通貨の単位が違ってます、当時の100円は大金です。(多分1円だと思います)
彼は19年に繰り上げ卒業、実戦さながらの写真は幹部候補生時代のものだと思います。
階級は曹長?軍刀持っていますから准士官以上ですね。
最後の写真、配属先はどうも中国大陸の様ですね。
シベリア送りになったのでしょうか、生きて帰れたのでしょうか。
戦死者が最も多い世代の方だったと思います。最後の写真は防寒服、北満 北支駐留かなと想像しますが。
もし南方戦線に転出フィリッピン沖縄に行かれたら、、海路も危険、戦線も壊滅したのでどうだったかなと思います。
卒業証明書が後日発行されていますので生き延びられたと思いたいです。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! ✨✨✨
この方は穏やかに天寿を全うしたのでしょうか、それとも・・。日本政府主催で大学生を戦地に送る壮行会が国立競技場で行われたのは、昭和19年。それからたった20年後に同じ場所で平和の祭典、東京オリンピックの開会式が行われたのですね。
5分12秒の値段は銭だと思います。100銭と書くことがあったか判りませんが、戦中の写真であれば間違いなく円ではありません。定食100円は戦後でも相当後。昭和30年代です。
戦死しなかったことは、めでたいことだ!私の叔父は、19歳で戦艦大和と運命を共にした。機関室勤務やったから、たまの甲板休憩が楽しみだったらしい。
過去は美しいもの、懐かしいもの、戻りたいもの、夢に出るもの、
そして過去は修正され美化されるもの,初恋のクラスメートの如し
戦争は絶対いけませんね。この方は無事戦後を生き続けていたんでしょうか?
私は戦後日本が平和、いや平和ボケしているんでは?と感じると以前鑑賞した台湾映画「KANO」を思い出します。
若いときの新平さん。
当時をどんな風に語るのかな?昭和20年4月から写真がないということは。戦争に行って帰ることがなかったのでしょうか?
卒業証明書が後日発行であるようなので、生還されたのでは?
北モンゴルであれば、根本博中将が司令官の軍師団では?
ソ連軍、中共軍と戦いつつ、民間人と共に日本に生還した旅団です。
司令官が自分の責任で、陸軍司令部の武装解除に従わなかったので生還できたのです。
関東軍は武装解除を即刻やって、民間人共々、シベリアに送られました。
根本博中将は、その後、台湾にわたり国民党軍を援助して中共軍を撃退しました。
アルバムの主様は、私が最初に剣道を教わった先生の世代の方とお見受け致します。私の先生は沖縄に行く船が無く生き残り、第二の人生を歩んだ、と…
先生を想い出すきっかけになりました。ありがとうございました。
箱根駅伝などで耳にした拓殖大学の創設経緯が意外でした。結構意味深いですね。
この年代の男子学生ならば、「学徒出陣」されたのでしょうか?
02:54集合写真は、拓大予科生のものです。現代の1,2年に相当する学年で、年代的におそらく現在の小平市で撮られたものでしょう。
花小金井駅前に予科は移転していましたから。
映像の丸帽は予科生、角帽は本科或いは専門部ですね。
紅陵の卒業証書は、学徒出陣されて戦後復員し、復学されたからでしょう。
この時代に定食百円は高くないのかなぁ。