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甲斐という不毛な土地から120万石まで領土を拡大した武田信玄はやっぱり凄いな…
確かにそうですけど、その過程で色々な禍根を作ってそのツケが勝頼に降りかかって武田滅亡に繋がると思うと複雑ですね。
@@user-qc2lq4gu8q ストッパー達が川中島で死んでしまったのが惜しい。勝頼が真田に避難していればあのようにならなかったのに...。
@@user-jy1mw4te2m流石に小山田の方行かざるおえないですけどねー
信玄のすごいのは、上杉、北条、今川、織田、徳川と、四方を強敵に囲まれながら、どの方面でも負けずに領土を広げたところ。信玄と信長の位置関係が逆だったら、信玄は簡単に畿内を制圧したと思う。
そしてちゃんと四方に敵を残したまま死ぬっていうね
甲斐一国からあそこまで版図広げたのはホントにすごいよ…まぁ外交面やらで色々やらかしちゃって武田滅亡の遠因作ったけど
改めて桶狭間の戦いの影響の大きさを感じる。今川だけではなく武田北条上杉の戦略もこの敗北で瓦解し、4者が互いに争う結果となった。そして不毛な戦いをしている間に織田は勢力を拡大していったと。
地図と一緒に解説いただけると分かりやすくて良いですね。ただ、武田氏の領土が最大になったのは勝頼の時代ですから、信玄没後に直ぐに衰退したのは言い過ぎかと。
福島正成の名字は「くしま」と読むそうです。難読名字ですねえ
敵の敵は味方ということで逆に包囲網を作っていたなお死後
優秀な後継者武田義信を死に追いやった罪は大きい。信玄は後継者や外交について自分の死後も考慮して行動して欲しかった。やりたい放題やって最悪の時に死んだ。
そのせいで勝頼が大変な思いしましたからね・・・
義信が優秀だったかどうかは詳しく知らないけど、信玄があとの事を考えずにやりたい放題周りを敵だらけにして次の代を苦しめた事は事実でしょうね!つまり信玄がもしあと10年生きていたとしたら、信玄は信長に結局は滅ぼされていたと思う。昔ながらの戦上手信玄とその時代において近代的な戦上手信長、そして国力も信長が圧倒的に上ときたら信玄は信長には100%勝てなかった事でしょうね。
>優秀な後継者武田義信を死に追いやった罪は大きい。理由はあるにせよ、自分自身が親を追放しているので息子を信じきれなかったのかもしれません
やはり軍記物は戦国がある種の概念にまで縮小された江戸時代のフィクションだと思う。記録というより平家物語や太平記の続きになる文学作品。
信玄の死の段階で武田氏は、織田、徳川を降すには小さすぎて降るには大きすぎた。
秀吉時代の北条と同じですね
信玄の不運は甲斐に生まれてしまったことだろうなぁ。山と川が多すぎて豊かとはいえないし、南の海に出ようにも今川と北条がいる。仕方なく北の海に向かえば軍神の謙信が待ち構えてる、、全盛期を信濃の山で浪費せざるを得なかったのはもったいなかった。結局得意の野戦でも港を抑えた織田軍には物量と火力で敵いっこなくなってしまった。大内とか尼子に生まれていたらどうなっていたか。
大内は少弐・大友という武田ー上杉並みの不倶戴天の敵対相手がいるし家中ギスギスすぎる(陶興房の父の護弘は酒宴で同僚の吉見信頼に斬られたのに吉見氏は多く奉行人に登用、陶家の娘は吉見氏と境目問題で対立してる同じ石見国人の益田氏に嫁ぐ 大内義興の正妻の実家の兄と父は陶興房の兄の武護の讒言で義興父・政弘に抹殺)尼子も基盤脆すぎ(京極から譲渡された守護職以外領国内の国人従わせる権威がなく出雲大社とか自分以上の権威もいる)で武田とあまり変わらない…→国人の自立心強すぎ問題
そうかなあ、甲斐源氏ってネームバリューめっちゃあると思うから悪くないとおもうけどなあ
結果論ですが、1561年の川中島の決戦の後に、信玄は西上野へ攻めずに将軍義輝に仲介してもらって上杉と和睦(義輝は信玄を信濃守護、謙信には輝虎の諱を与えたことがある)。今川との同盟も継続した上で、信玄は次なる矛先を美濃へ向けたらどうなっていただろうと思います。つまり信長より先に、信玄が美濃を奪うわけです。
海にも出れない上に無駄に隣接勢力も増える、、山越えの行軍してまで取る価値がありますかね?
無理ですね。甲府から岐阜まで車で旅行してみるといいですよ。4回山越えしなきゃいけないっていう絶望的な遠さですから。攻略拠点となる木曽地方の狭さにも驚くでしょう。ここで兵糧を集めても大軍は維持できない。三河尾張がなければ美濃に攻め込むことはできません。
甲斐スタートって貧しいし海もないしでほんとひどいハンデだなあそこまで伸ばした信玄すげぇわ
good
信玄のなりふり構わない拡大路線のせいで滅亡したようなもんだけどな
実は勝頼は正式な跡取りではなかったのは余り知られて居ませんね。それ故に信玄亡き後に武田家を束ねきれなかったのが鉄の団結を誇った武田家の滅亡に繋がりました。
いつの時代も「創業者」や「中興の祖」は偉大…惜しむらくは「これから」という時に天命が…だがそのお陰で徳川は命拾いしたとも言えなくもないかも。
信玄を絶賛する資料は多いが、信玄を褒める事でライバルの家康を遠回しに褒める事になる。 家康は石川数正の出奔時に軍制を甲州流にしているし。 江戸時代の徳川政権下で信玄を褒める事=家康を遠回しに褒める事になるので資料の信憑性は微妙。 勿論、信玄は強かったんだろうけど、それには尾ヒレが付いている事は考慮すべきですね
一言坂二俣城三方ヶ原
信玄が父を追放したのは歴史ファンの常識とも言える。
要害山城より難攻不落そうな城名無い説
不毛な甲斐からさらに不毛な信濃に侵攻するという選択はどうなんだろ?信濃は上杉や織田に対する緩衝地として残しておいて駿河をさっさと制圧しておくべきだった
まだ信玄が信濃に行く前の1540年ころの仮定でお話ししますが駿河はどうやって落とすの?花倉の乱後に今川が武田と組んだことで北条氏が今川と手切れになったわけでそのまま駿河に行くと今川と切れてない北条にも囲まれる形になります、今川氏輝時代に今川と北条を敵に回して甲斐国内をかなり浸食されて武田信虎の弟が討ち取られています、結局信濃に行くしかないのですよ、不毛だとかはもう仕方ないのですよ、小さいところを喰うしかない。
名実ともに甲斐一国を支配していた守護からのスタートは言うほど不利でもない。戦国最強だけど戦国大名の殻を破れないまま終わったとも言える。
天下統一は最初から無理ですあまりにも強すぎました。
村上家は気の強い一族。武士道を重んじた当時において現代のような水面下でのロビー活動で村上家に勝ち得たのはなんとも…現代においては村上家、武田、双方とも因縁はないと聴くが、家来達は今だに奔狼されているものもいる。誰とは言わないが村上家は現代 政治の世界に戻っているが、今だに気高い一族です。勝てばいいのか?負けたら悪者か?考えさせられる戦いだ。日本の戦から武士道が消え始めた流れの始まりだ。
真田を軍師にして、信玄があと10年生きていたら。
いちこめ
キラ星のごときスター戦国武将のオンパレード。歴史は人で面白くなる
なんだかんだ武田信義のほうが優秀に思えるわ
皆誤解してるけど百姓がかつかつで暮らしてるような土地を勢力圏にしてもほぼ無意味日本地図で凄く広くても武田家の最大版図はそれだけでは非常に価値が低いエリア。当時だと山、山岳、山脈、森森森、谷、谷、河原河原河原ばかりで耕作地は非常に狭く災害が多発する地域。勿論長く安定的に支配すれば街道や諏訪大社や善光寺などから利益を得る可能性はありますが。一気に版図を広げながら国衆の離反であっけなく滅ぶあたりは西国の尼子家にそっくり。百姓も国衆も貧しい地面を押さえて頭目たる戦国大名が得られるものは何?と考えないと戦国の実情は理解出来ない。信長や秀吉が天下人になったのは貫高が大きかったから。実際に信玄がやって居たのは騎馬民族式の略奪と奴隷狩りであり貧しい地域を先を考えずに収奪する武田軍が恐れられたのは当たり前だし来られると迷惑だから今川北条は安全保障のために不要な土地へのフリーハンドを認めたのが甲相駿同盟。日本の表裏が今と真逆な当時。豊かな先進地域である日本海側と夷が住む未開の東日本太平洋側。京都から離れるのにつれて貧しく人跡まばらになって行く構造。もし信玄が言われてるほど強ければ川中島で成果無しの戦いなどせずにより近い今川の港を獲りに行ったはず。
強いのはわかるのですが、戦上手だけど絶望的に内政出来なさそうな家臣しかいないイメージなので天下をとってもあまり長続きはしなかっただろうな。名門というブランドから逃れられない田舎大名感がぬぐえない。
甲斐という不毛な土地から120万石まで領土を拡大した武田信玄はやっぱり凄いな…
確かにそうですけど、その過程で色々な禍根を作ってそのツケが勝頼に降りかかって武田滅亡に繋がると思うと複雑ですね。
@@user-qc2lq4gu8q ストッパー達が川中島で死んでしまったのが惜しい。勝頼が真田に避難していればあのようにならなかったのに...。
@@user-jy1mw4te2m流石に小山田の方行かざるおえないですけどねー
信玄のすごいのは、上杉、北条、今川、織田、徳川と、四方を強敵に囲まれながら、どの方面でも負けずに領土を広げたところ。
信玄と信長の位置関係が逆だったら、信玄は簡単に畿内を制圧したと思う。
そしてちゃんと四方に敵を残したまま死ぬっていうね
甲斐一国からあそこまで版図広げたのはホントにすごいよ…まぁ外交面やらで色々やらかしちゃって武田滅亡の遠因作ったけど
改めて桶狭間の戦いの影響の大きさを感じる。今川だけではなく武田北条上杉の戦略もこの敗北で瓦解し、4者が互いに争う結果となった。
そして不毛な戦いをしている間に織田は勢力を拡大していったと。
地図と一緒に解説いただけると分かりやすくて良いですね。
ただ、武田氏の領土が最大になったのは勝頼の時代ですから、信玄没後に直ぐに衰退したのは言い過ぎかと。
福島正成の名字は「くしま」と読むそうです。難読名字ですねえ
敵の敵は味方ということで逆に包囲網を作っていた
なお死後
優秀な後継者武田義信を死に追いやった罪は大きい。
信玄は後継者や外交について自分の死後も考慮して行動して欲しかった。
やりたい放題やって最悪の時に死んだ。
そのせいで勝頼が大変な思いしましたからね・・・
義信が優秀だったかどうかは詳しく知らないけど、信玄があとの事を考えずにやりたい放題周りを敵だらけにして次の代を苦しめた事は事実でしょうね!
つまり信玄がもしあと10年生きていたとしたら、信玄は信長に結局は滅ぼされていたと思う。昔ながらの戦上手信玄とその時代において近代的な戦上手信長、そして国力も信長が圧倒的に上ときたら信玄は信長には100%勝てなかった事でしょうね。
>優秀な後継者武田義信を死に追いやった罪は大きい。
理由はあるにせよ、自分自身が親を追放しているので息子を信じきれなかったのかもしれません
やはり軍記物は戦国がある種の
概念にまで縮小された江戸時代のフィクションだと思う。記録というより平家物語や太平記の続きになる文学作品。
信玄の死の段階で武田氏は、織田、徳川を降すには小さすぎて降るには大きすぎた。
秀吉時代の北条と同じですね
信玄の不運は甲斐に生まれてしまったことだろうなぁ。山と川が多すぎて豊かとはいえないし、南の海に出ようにも今川と北条がいる。仕方なく北の海に向かえば軍神の謙信が待ち構えてる、、全盛期を信濃の山で浪費せざるを得なかったのはもったいなかった。結局得意の野戦でも港を抑えた織田軍には物量と火力で敵いっこなくなってしまった。大内とか尼子に生まれていたらどうなっていたか。
大内は少弐・大友という武田ー上杉並みの不倶戴天の敵対相手がいるし家中ギスギスすぎる(陶興房の父の護弘は酒宴で同僚の吉見信頼に斬られたのに吉見氏は多く奉行人に登用、陶家の娘は吉見氏と境目問題で対立してる同じ石見国人の益田氏に嫁ぐ 大内義興の正妻の実家の兄と父は陶興房の兄の武護の讒言で義興父・政弘に抹殺)
尼子も基盤脆すぎ(京極から譲渡された守護職以外領国内の国人従わせる権威がなく出雲大社とか自分以上の権威もいる)で武田とあまり変わらない…→国人の自立心強すぎ問題
そうかなあ、
甲斐源氏ってネームバリューめっちゃあると思うから悪くないとおもうけどなあ
結果論ですが、1561年の川中島の決戦の後に、信玄は西上野へ攻めずに将軍義輝に仲介してもらって上杉と和睦(義輝は信玄を信濃守護、謙信には輝虎の諱を与えたことがある)。今川との同盟も継続した上で、信玄は次なる矛先を美濃へ向けたらどうなっていただろうと思います。つまり信長より先に、信玄が美濃を奪うわけです。
海にも出れない上に無駄に隣接勢力も増える、、山越えの行軍してまで取る価値がありますかね?
無理ですね。甲府から岐阜まで車で旅行してみるといいですよ。4回山越えしなきゃいけないっていう絶望的な遠さですから。
攻略拠点となる木曽地方の狭さにも驚くでしょう。ここで兵糧を集めても大軍は維持できない。
三河尾張がなければ美濃に攻め込むことはできません。
甲斐スタートって貧しいし海もないしでほんとひどいハンデだな
あそこまで伸ばした信玄すげぇわ
good
信玄のなりふり構わない拡大路線のせいで滅亡したようなもんだけどな
実は勝頼は正式な跡取りではなかったのは余り知られて居ませんね。
それ故に信玄亡き後に武田家を束ねきれなかったのが鉄の団結を誇った武田家の滅亡に繋がりました。
いつの時代も「創業者」や「中興の祖」は偉大…
惜しむらくは「これから」という時に天命が…
だがそのお陰で徳川は命拾いしたとも言えなくもないかも。
信玄を絶賛する資料は多いが、信玄を褒める事でライバルの家康を遠回しに褒める事になる。 家康は石川数正の出奔時に軍制を甲州流にしているし。 江戸時代の徳川政権下で信玄を褒める事=家康を遠回しに褒める事になるので資料の信憑性は微妙。 勿論、信玄は強かったんだろうけど、それには尾ヒレが付いている事は考慮すべきですね
一言坂
二俣城
三方ヶ原
信玄が父を追放したのは歴史ファンの常識とも言える。
要害山城より難攻不落そうな城名無い説
不毛な甲斐からさらに不毛な信濃に侵攻するという選択はどうなんだろ?
信濃は上杉や織田に対する緩衝地として残しておいて
駿河をさっさと制圧しておくべきだった
まだ信玄が信濃に行く前の1540年ころの仮定でお話ししますが駿河はどうやって落とすの?花倉の乱後に今川が武田と組んだことで北条氏が今川と手切れになったわけでそのまま駿河に行くと今川と切れてない北条にも囲まれる形になります、今川氏輝時代に今川と北条を敵に回して甲斐国内をかなり浸食されて武田信虎の弟が討ち取られています、結局信濃に行くしかないのですよ、不毛だとかはもう仕方ないのですよ、小さいところを喰うしかない。
名実ともに甲斐一国を支配していた守護からのスタートは言うほど不利でもない。
戦国最強だけど戦国大名の殻を破れないまま終わったとも言える。
天下統一は最初から無理です
あまりにも強すぎました。
村上家は気の強い一族。武士道を重んじた当時において現代のような水面下でのロビー活動で村上家に勝ち得たのはなんとも…
現代においては村上家、武田、双方とも因縁はないと聴くが、家来達は今だに奔狼されているものもいる。
誰とは言わないが村上家は現代 政治の世界に戻っているが、今だに気高い一族です。
勝てばいいのか?負けたら悪者か?
考えさせられる戦いだ。日本の戦から武士道が消え始めた流れの始まりだ。
真田を軍師にして、信玄があと10年生きていたら。
いちこめ
キラ星のごときスター戦国武将のオンパレード。歴史は人で面白くなる
なんだかんだ武田信義のほうが優秀に思えるわ
皆誤解してるけど
百姓がかつかつで暮らしてるような土地を勢力圏にしてもほぼ無意味日本地図で凄く広くても武田家の最大版図はそれだけでは非常に価値が低いエリア。当時だと山、山岳、山脈、森森森、谷、谷、河原河原河原ばかりで耕作地は非常に狭く災害が多発する地域。勿論長く安定的に支配すれば街道や諏訪大社や善光寺などから利益を得る可能性はありますが。一気に版図を広げながら国衆の離反であっけなく滅ぶあたりは西国の尼子家にそっくり。百姓も国衆も貧しい地面を押さえて頭目たる戦国大名が得られるものは何?と考えないと戦国の実情は理解出来ない。信長や秀吉が天下人になったのは貫高が大きかったから。実際に信玄がやって居たのは騎馬民族式の略奪と奴隷狩りであり貧しい地域を
先を考えずに収奪する武田軍が恐れられたのは当たり前だし来られると迷惑だから今川北条は安全保障のために不要な土地へのフリーハンドを認めたのが甲相駿同盟。
日本の表裏が今と真逆な当時。
豊かな先進地域である日本海側と
夷が住む未開の東日本太平洋側。
京都から離れるのにつれて貧しく
人跡まばらになって行く構造。
もし信玄が言われてるほど強ければ川中島で成果無しの戦いなどせずにより近い今川の港を獲りに行ったはず。
強いのはわかるのですが、戦上手だけど絶望的に内政出来なさそうな家臣しかいないイメージなので天下をとってもあまり長続きはしなかっただろうな。名門というブランドから逃れられない田舎大名感がぬぐえない。