更新ありがとうございます!いつも楽しく勉強させて頂いております!☺️✨ また楽しみにしています!🌷.*
歴史の流れを見てると
本当に秀吉の子供かどうかよりも誰が産んだのかがキーポイントになってるのが面白い
信長の娘達よりも浅井三姉妹の嫁いだ家の方が歴史の中心になってて、当時は本当に血の繋がり濃いほど重要で政略結婚が大きかったんだね
お市の方と浅井長政は、3人の娘が日本史のキーマンになるとは思いもしなかったでしょうね。
実父、養父が続けて落城。淀君は息子の城まで落城。考えてみれば気の毒な女性だ。
長女は秀吉の側室となって秀頼を産む。三女は秀吉の命令で三度結婚するけれど、二度目の結婚は現在の皇室の血筋となり、三度目の結婚で徳川家唯一の正室から生まれた家光の生母となる。こう考えるとすごい。
千姫の件は、家康の策略ではないと思う。秀吉が亡くなる前に懇願していたので、その願いを聞いたというだけの話。徳川家からしたら、豊臣家が服従するなら、平和裏に取り込めるが、服従しない場合、家康は「孫」を人質に取られるだけになるからね。
秀吉と秀頼の身長差には
秀吉の生い立ちを考慮すると
栄養なんかも関係していそうだけど
当時の一般的な身長が150cmほどだったことも考慮するとやはりおかしい
ちなみに秀吉・淀君・秀頼の
身長で
現在の有名人に例えると
秀吉……池乃めだかさん
淀君……菜々緒さん
秀頼……ダルビッシュ有さん
に 該当します。
秀吉と秀頼の身長差が大きいのは
秀吉が幼い頃ネグレクトにあったのと
(継父に虐められた)
織田・浅井家が高身長の家系だったのが
原因と思われます。
千姫に助命嘆願された奈阿姫は、出家して天秀尼となり東慶寺のトップになります。
(千姫の養女になってます)
とある殿様が非道な政治をしていて、それを諌めた家老を殺してしまい残された妻子が東慶寺に逃げて天秀尼に助けを求めた。
殿様は妻子を引き渡せと言うけれど、天秀尼は千姫の養女=将軍家光の姪というのを利用して、自分に楯突く奴は将軍家に楯突く事と同じだと啖呵を切ります。
結果、その殿様のお家は改易となり妻子を救うことができたって言うカッコいいエピソードがあります。
6:34 淀殿は巨漢の浅井長政の血を引いてるので秀頼が大きくても不思議ではない
そう思うと昔の遺伝子っていい加減ですよね。
お父さんに似てない=浮気?
めっちゃ安直。
とはいえ私は淀浮気説派ですが。
ちなみに私は父が産んだんじゃないかと思うくらい父親似。
どうでもいいですねすいません。
マジレスですが、DNA鑑定しないとどうとも言えない。
普通に考えれば、あれ程側室が居たのに淀殿だけに子供ができるのはやはり不自然だと思う。
人質から養子にされるより一歩手前が、家康が義元のところで受けた待遇ぐらいか
天皇陛下の祖先を見ていくと、たくさんの歴史上人物の血が継いでいるから、機会があれば紹介してほしい(例えば徳川家や島津家、石田家など)
桓武平氏、清和源氏と呼ばれるから平家と源氏は元々は皇族の子孫になる。
足利氏、徳川氏も元は源氏に行きつく。なお、織田家は平家由来の一族故将軍になれなかったといわれているね。(秀吉は言わずもがな)
まあ、確実に1500年以上続いてる皇統だから、日本人の結構な数は皇族につながる可能性はあるよね。
大坂夏の陣で家康に根絶やしにされたんだよな。
秀吉の中国大返しについて、準備が整いすぎているとよくいうけど、そもそもその時点で秀吉は信長にわざわざ救援要請という忖度をしていて、京都から中国へ信長本体を迎え入れるために道中の準備を念入りにしていたはず。(どうせ最初からその計画を立てながら中国へ向かったのだ。秀吉にとって毛利攻めは単なるお祭り。後の北条攻めもお祭りみたいなもんだった。やり方が同じよ)だから逆にそれを使えば秀吉は問題なく京都へ大返しできた。大返しは秀吉の日ごろの余裕ある戦略にの賜物。
@@user-ms6kz9yl6t 様へ。
槍・刀など共同で使うもの。あるいは、家臣団ごとに船に目印を付けないと、てんやわんやですね。足軽の装備品のような軽装は、自分持ちのような気がします。
詳細がわかる資料がみつかれば、面白いですね。
つか後詰めで信長自身が出張る予定だったようで、御座所にするための城があちこち作ってあったし、中には船着き場の城まであったりします。あと大軍を移動させるために道路拡張もしてるので、移動しやすかったのは間違いないでしょう。
最近は中国大返しの苦労は秀吉本人が盛った苦労話と言われています。
ど素人のウロ覚えですが 秀吉は、宝塚の 中山観音で子宝を祈願してから 有馬温泉によく行ったそうなので 中山観音は 子授け 安産など 女性を守護する寺として有名です。秀吉は、水堀がある城のような寺や 道が狭隘で 大軍で攻めにくく、裏から水路で逃げやすい天然の要害の寺に逗留しています、本能寺の教訓なのかもですね。
「子供ができない」というのは男性側に問題があるor女性側に問題があるの
2択だと思うのですが、こんなにねね&側室が居て誰も居ないってのは
大抵、秀吉側に問題がありますよね~。
側室の中には、一度子を産んだ後で側室になった人も居て、
その人は確実に子を妊娠して出産する能力があるわけなので、
そもそも秀吉に子種が無いってことになってしまいますわな。。。。
「源 頼朝が子供だったから助命されて」平氏が滅んだから武士の男子は
殺すという選択肢になるのは必然ですよね(汗
秀吉は他にも淀との間に娘ができてるし若いころ妾の間に石松丸という子供もできてる
間男なんかも疑ってないはずはなくそんな気配があったら即処刑されるのに実子でないという可能性は考えにくい
よく調べもせず世間の風評に流されてタネナシとか決めつける前に少しは勉強した方が良いよ
滅んだのは清盛と戦に出た直系子孫の平家であって、平氏全部が滅んだ訳では有りませんね。北条政子の北条氏初め関東の平氏は頼朝に付いてますし、何より清盛の弟の家系は今も続いてますし、養子に出された孫も太宰府の役人になった記録が有るそうですよ。
@@user-cj2pl9kv2x
祈祷と称したお籠り乱交の際は祈祷師と侍女が斬罪になってるよ(その時の祈祷で生まれたのが秀頼)鶴松の際も祈祷で懐妊したとの事です、秀吉の第一子である秀勝が実子だとすると後天的に種無しになった可能性はありますね(例えばクラミジアとか、常時浮気性だった秀吉にはあり得そうな話です)
本能寺の変の時の秀吉の後継者は信長の息子だし、上様が援軍に来るんだから道路の整備と接待の準備も万端で、それを無駄にしないためにも情報は逐一把握していたからでしょうね
子捨ての習慣はごく最近まであり、私の祖母の姉妹がいったん捨てて拾われる形で名前を二つ持っている。
「暴れん坊周軍」というドラマでも有名な、紀州徳川家出身の徳川八代将軍吉宗、
四男として誕生したけど、何故か家臣の家の子として育てられたんだけど・・・
それもやはりそういう事だったのかな・・・
@@tomoyukiikeda4984
子供の頃読んだまんが偉人伝の『徳川吉宗』でそのように書かれてましたよ!
父親が高齢だと育たないという説があって、困った紀州のお殿様が、わざと捨てて家臣に拾わせ、ある程度大きくなるまで育てて貰ったというエピソードがありました。
BGMが大きすぎて内容が頭に入ってこないのが勿体なく思います
昔は正室と側室が居るから一夫多妻とよく言われるけど正室は正妻だけどそれに対して側室はあくまで「使用人」だからそこを勘違いしてはいけない。
大野治長、石田三成説は後でややこしいことになるから違うでしょう。そもそも石田三成と淀殿は不仲だったらしいですし(秀吉の小姓あがりだからむしろねねさんに可愛がられていたとか)。昔は旅芸人が子種を授ける役割を果たしていた様なので、秀頼の父親はそんな人じゃなかったかと思っています。
大野説は割と信憑性がある話は出てきている(茶々の乳母が大野治長の母と言う事もあり乳兄妹或いは乳姉弟の関係だし密通していたと言う噂もある)
あとは祈祷(参籠)と称した乱交によって懐妊したと言う説もある(この場合は相手は僧侶か陰陽師と言う事になる)秀吉も二度目の頃には淀に対しては「自らの乳で育てる様に」と言い関係者(僧侶、陰陽師、淀の周りの侍女)を処断している。
石田三成は朝鮮出兵の総奉行として、秀頼の生まれる前年の1592年から1593年までずっと朝鮮にいて、参戦記録まであるから、光成父親説は生物学的に無理。
豊臣国松は、薩摩に行って
父親の死後に豊後日出藩の木下氏(秀吉の正室 北政所の兄)に引き取られ、次男木下延由として日出藩の支藩である立石領の領主になります。幕末までは続きますが、最後の姫が関東大震災の際、行方不明になり途絶えております。
秀次誅殺は悪手だったよなぁ…
秀次の素行の悪さはほぼ真実。切腹の数年前に秀吉から厳しく叱責の手紙を送られている。秀吉の手紙で確実と研究者の方が特定。秀次名君説が時々見受けるが、受けをねらった逆説の可能性大です。
又、秀吉の手紙以外でも素行の悪さは伝わってます。
@@matukawatositane 様へ。
秀次が跡を継いでいたら、家康は簡単に滅ぼしたのでは?いくらでも理由つけられるし。自分の立場が危ないのに、女漁りしてる場合じゃない。最上の姫様気の毒。寺に残る花嫁衣装の一部を観たとき、涙こぼれそうだった。秀吉も老害でこらえ性がなくなり、殺し過ぎ!
秀次本人というよりかは、数少ない羽柴家の血のストックを大幅に減らしたこと、関係する大名公家に至るまで罰したり、彼らの娘まで処刑してしまったことは相当痛手。
秀次はともかく、その子供たちまで殺したことが、豊臣家滅亡の始まりですね~。子供が居ないんだから、みんな養子にすれば誰かが現代まで血を遺すかも知れないのに……。秀頼と秀次の娘を結婚させる話も有ったらしいですよ。
跡継ぎがいないと悲劇の武将に思われがち。しかし、秀吉の織田家に対しての非情さもなかなかどうして。裏切った信孝の母・娘を処刑。信孝の母は信長の側室。
戦国の武将は、魅力もあるが、非情さもある。有名武将の男子直系はほとんど絶えている。明治まで続いていても、殆ど養子縁組。江戸時代も落ち着いてくると家臣団も藩の存続重視になる。
@@yh6146 様へ。
石田三成は、評判は良くないが、評価は高いですね。家康などは『三成、将たる者なり!』と死ぬまで健康を気づかった三成を評価してます。皆が笑ってたのに。冷静に人物評価をしてた人たちから、守られたということは、三成が一角の人物の間接的証拠になると思います。
兄の方は残ったから、
ある意味秀吉な血は残っている。
8歳の子になにしてんの
笑った
本当にそのとおり笑
勉強になります!
織田による浅井攻めの後始末でも似たような事が・・・
信長の指示により浅井の跡継ぎ処刑担当したのが秀吉だった・・・
淀殿=茶々からすれば、秀吉は実両親、弟と継父の仇なんだよね。
@@tomoyukiikeda4984
さすがにその頃の秀吉は単に信長の命令に従ってただけだと思います。
豊臣家の家臣団は旧浅井系の者が多いですし、浅井長政の息子も大阪の陣で豊臣側についています。
"縄文を創った男たち"や"新・日本列島から日本人が消える日"などの本を読むと、いきさつ納得するわ( ̄▽ ̄)
秀吉に子宝がなくても、弟の秀長がご存命だったら、豊臣の血筋は少なくとも残っていただろいね。豊臣派の意見😁
初めてコメントします。秀吉の姉のともにも言及して、九条家を介して今の皇室に繋がっていることまでコメントして頂きありがとうございます。
本名で投稿している方も結構いるので、自分のすきな分野に勇気もって投稿してみては?へんな悪口のいい合ってない項目・本名の多い項目をおすすめします。
南雲中将の項目、興味あったらのぞいてみて下さい。みんなでいい情報が集まってます。私も投稿してます。
バテレン追放令出した立派な人だと思う。
パードレ(ラテン語の神父という語)が訛ってバテレンになった。細川ガラシャもグロリア(神の栄光、恩賜)が訛ってガラシャ。身分制が被差別民と傲慢不遜の王を生んだのは、西洋も東洋も同じ。本来、神様を想う信仰には政治は関係ないのだけど…ヨーロッパ諸国も貧しい時代だったからな…彼らが交易はしても、植民地支配さえしなければ、世界中で色んな悲惨と残酷は起こらなかっただろうにな…とは、思うね。
@@cotton-Club. ちょっと間違いがあるね。 グローリア(GLORIA; Glōria)=「誉れ、栄光」ではなく、グラーティアまたはグラーシヤ(GRACIA; Grātia)=「恩寵」が転訛(てんか)してガラシャになった。女優のグレース・ケリー(Grace Kelly)と同じ名前ということだ。
明智すら子孫居るのになぁ。
@@sabasanma
それどころか石田三成すら今上天皇の先祖にあたるんだよな
今上天皇には徳川家康も石田三成も明智光秀も織田信長も秀吉の姉も入っているという
秀吉のおたふく病が結構大変だったし、
権力の件で結構かかってるな
言い伝えとはいえ当時の成人男子の身長が150半ばから160くらいと言われる中で198って漫画の世界やん
@@user-qu2es6tt3n さん
それもありますが、日本人の平均身長自体が400年(だったかな?)サイクルで大小を繰り返してるらしいですよ。どこかで読んだ記憶が。
要するにタネ無しだったんだろなぁ。
そんじゃ秀頼の存在は?
そりゃあ既に両親の最期の状況が理解できる年齢に成長していた茶々様が、自分の人生をかけて成し遂げた復讐劇に違いない。と昔からずっと思ってる。
秀頼以外も子供全員きっと父親は秀吉じゃないだろな、誰の子か知ってるのは産んだ本人だけだ~。
待ってました。日本歴史で1番気になる人物でした。細木数子さんも言ってましたね「一代で富や名声、女を者にしたものは子孫を残せない」って…。
甥っ子一族を滅ぼしたのは失敗だったのよ😔残念😔甥っ子の両親も気の毒だったね
確かに豊臣の子孫は聞いたことないな
徳川と織田はいるけど
秀吉の子供なのに秀頼は巨漢というのは
母方の祖父である浅井長政が巨漢であり、そちらの血を受け継いだという説もある
というか 淀と大野修理との間の子と言われているけど
藤吉郎は あれだけ女性に手を付けておきながら 淀にだけ子が授かったのはおかしな話
もし秀頼が 巨漢でなく 藤吉郎に似て貧相な顔立ちでチビであれば 家康は大阪攻めをしなかったのではないかと言われている
巨漢で意外と才がありそう だから死に際で家康は大阪を攻めた
現在令和でよかったです🎵。
ハゲいじりは日本で最も長いイジりポイントではないのか(?)
…冒頭だけ見てコメしましたwちゃんと本編みますw
金持ちだけでは生き残れないなんて厳しい時代だったんですね。確か朝倉氏も金持ちだったらしいです。
秀吉は我が儘すぎた 関白になった時に家康を将軍職に推薦すれば最高だったのを権力にしがみ付いたのが敗因
関白と征夷大将軍の関係はとりあえず置いておいて、あとその時は既に足利義昭が征夷大将軍に就任してるんだけど…まぁそれも置いておいて、
なぜわざわざ家康に権力を付与する必要があるのですか?
それこそ豊臣政権内(武家関白制の中で)のパワーバランスが崩れてしまう
一番アカンかったのは黒田官兵衛を手放した事でしょう。
それでケチがついた。
黒田官兵衛がいたら朝鮮出兵も丸く収めた(戦わずに交渉した)かもしれたかったのに。
@@sabasanma 手放してはいないよお伽衆に取り立て隠居別家の形で三千石(諸説あり)を与えている西国諸大名への取次も一部担当している以前ほどではないだけでそれなりには用いている細川幽斎と同じ扱い
島原の乱があれだけ苛烈だったのはキリシタン撲滅もあったけど、秀頼の子孫が九州に逃れてて、その血筋を絶つ目的もあったのではないかと聞いたことあります。
国松?は鹿児島に…ということは薩摩の島津家ですね。
幕末では薩摩は倒幕の主要メンバーでした。
もし国松が生き残ってたとしたら、それこそ一子相伝で『いつか徳川を討て、そのために力をつけろ」と代々藩主に受け継がれてたかもしれませんね
実際、薩摩藩は密貿易でかなり儲けてましたからね
秀吉の最期の遺言 露と落ち 露と消えにし 難波の事は 夢のまた夢かな
天下取った何でも手にしたけど最期は虚しいという詩です
豊臣家で残った子孫は秀吉の甥の豊臣秀勝と徳川秀忠の嫁の江の子供で、昭和天皇の先祖の豊臣完子ぐらいのものじゃ。
山間部の閉鎖された世界でキツいインブリードの影響でしょうね。
治長おさむちょう?なにそれ
はるながでしょう⁉️
まさか天皇陛下のご先祖に、秀吉の姉がいるとは思わなかった。元は農民の血筋なのに。
まぁ、猿みたいにやり散らかしてたのは本当だと思うけどね。
それでも、誰一人、着床しませんでした…。
秀頼は秀吉の種かどうかは怪しい。あれだけ側室いるのに、何故か淀君だけからしか出来ない?それに秀頼は小柄な秀吉に似ずに偉丈夫なのは?もしあの時代にDNA検査があれば、とんでもない事になるかもね。
なんで魔理沙も霊夢もこんなに辛辣なんだ…w
前田慶次は子孫いたんじゃなかったかな
子孫は加賀藩士だったよね。
大野治長(おおのはるなが)
↓
おおのおさむちょう
吹きました😅😅😅😅
天草四郎秀頼の子説とかいう某先輩説みたいな話もありましたね。
日本本土から尊き血筋の方が琉球に来たって噂を聞いた家康が薩摩の琉球侵攻を命じたって説もありますね。
天下のことに関わり白す。近衞家、鷹司家、九條家、一條家、二條家の五攝家からすれば、豊臣家の摂関就任は屈辱の10年間であったと後世に語っておりました。
ねねは、結婚当初ちゃんと妊娠したはずですよ。
ただ、あまりに貧乏だったから、堕胎させられて、そのせいで不妊になったと言われてます。
だから、ねねは、
自分が子供は望めないのに、側室の子など許すものか!…って、思いがあったんじゃないですか?
大谷吉継も秀吉の子と言われているし、けっこう居たとも言われてます。
ただ、「自分の血筋」を強く望んでいた ねねに皆、謀略で自然死風に抹殺された疑いもあるようです。
秀吉はおたふく風邪が元で無精子症だったと言う説があるのだそうですよ。大谷吉継が秀吉の子供と言う説があるのだそうですよ。
昔は写真もないからこそ影武者とかも使えたんだろうし流石に嫡男を殺すのは情が湧いた家康がどっかの浮浪児を攫ってきて身代わりにしたのはありそう…
石松丸が生きてたらなぁ
あまり知られていないけど、
秀吉って、左右の手のどちらかの指が6本あった。
信長から、猿、ハゲネズミ、の他に、ムツ、とも呼ばれていた。
だから特別の遺伝子で、子種がなかったのでは。
〜というのは偏見ですかね。
右手ですね。しかし、多指は遺伝的異常で起きるわけではなく、単なる偶然です。仮に遺伝的異常で起きるとしたら手足の指全てが多くならないとおかしいでしょう?秀吉の場合は右手だけですからね。
秀吉女性説
背が低い
髭が生えなかった
妙に側室が多い
5:24 浅井長政と信長との間に生まれた子供と聞こえた。疲れてるんだな俺。
関ヶ原の戦いの時に、家康に自分の城と領地を差し出すと言った大名は、殆ど全員が秀次の家老だった大名と言う話が有るね。
彼等は秀吉に讒言したのが石田三成と思い、一緒に三成を倒してくれるならと城と領地を差し出したって話もある。
2:40
自首しても警察だって困るよ。笑っ
秀吉は子供が出きるのが遅すぎたね。もっと早くに側室迎えるべきだった
長浜までは側室持ってなかったんでしたっけ?
(浮気はしてただろうけど)
長浜時代で40前後だから、当時の栄養状態ではもう生殖機能も衰え初めていた可能性はありますね。
そういうこともあるよね。普通に
ヒデ様は種無しの噂も…。
そうか、秀頼が秀吉の子供じゃなかったら、というのは考えたことがなかった。
皮肉な話だな
戦国時代の始まりは応仁の乱、つまりは世継ぎ争い
室町幕府も将軍の養子問題で潰れたのに
天下を制した秀吉もまた世継ぎに荒れて結果滅亡
因果は巡るもんだな
秀吉は手当り次第女に手を付けてねねが信長に秀吉を叱りつけるよう頼んだ位女好きだったのに、茶々にしか子供が出来なかった、秀吉は無精子症だったのでは?ねねの家は多産ですよね。
昔、私のひいおじいちゃんの妹が羽柴さんって人に嫁入りしました🐒
一夢庵風流記によれば前田慶次には嫁と息子と娘が居るっぽいけど
まあ、脱藩する時に嫁と共に捨てて行ったけど(外道)
劉備と諸葛孔明みたいに、秀吉が家康に、秀頼がダメならお前が主となれと公に遺言していたら、少なくとも豊臣家は残っていたのかもしれない
そんなこと言う奴ならそもそも秀次を殺さないよ
秀次は甥で血筋だしなにより豊臣では珍しくまともに子沢山
秀次が秀頼補佐すれば話は大分違った
秀頼がアホで秀次が実権握ってもそれはそれで家は続く
淀殿=茶々と秀吉の、本来の因縁考えたら・・・
淀殿のあの行動は、豊臣を豊臣を滅ぼす事が目的だった。
なんてif話が作れそうである、ような気がするけどな。
だって実両親に兄弟、継父の仇みたいなものだよ、茶々視点で見たら・・・
@@tomoyukiikeda4984 茶々が親の敵の藤吉郎の家を滅ぼすために側室になると言う漫画を読んだことが有る。その中で、淀殿は臨終間近の秀吉に秀頼は秀吉の子供ではないことを告げて秀吉を絶望の縁に追い込んでいた。
秀吉不妊説だな、と秀吉の嫡男(子供)話聞くとそう思う
でも 誰も見てね〜不思議な話し😂✨
わたくし、秀吉さんではないのですが
遺伝子残さないべし、私も残さない
結婚したときに夫もきめた。子供はいらないと
子孫って浪漫があるけど、親類近親で結婚しないと1代ごとに血が半分になってくんだよね
現代でどれだけ薄まってるんだか・・・
ちなみに自分の始祖は藤原鎌足らしいけど
血なんて薄まりすぎて残ってるのかな?って思ってる
秀吉だけ子孫居ないのか…まあ仕方ないさ。
歴史はおもしろい!
鹿児島県に秀頼のひ孫が生き延びてその子孫がいるそうです。名前を変えて行きてったそうです。
絶対秀吉の実子はいないと思う、淀さんと誰かの御子さんだよね
当時から、そういう張り紙がされて秀吉が怒って犯人を56しを
淀さんは信長の姪で主人筋の側室だから、分かっていても自分の子と信じたかった
なんか、悲しい英雄ね。浅野内匠頭刃傷沙汰は寧々の実家筋だからお家取り壊しに
なったと言う説があるけど、どうなんだろうね?
秀吉は農民では無かった説があるのだそうですよあの時代農民と言えど勝手に出奔すると罰せられることがあったみたいですよ。
絶対実の子供ではないような
DNA鑑定したら歴史変わりそう
関ヶ原から大坂の陣に至るまで要所要所で選択間違えてるのは実のところ淀殿って感じがする。
秀吉が秀頼を託したのは家康だったし寧々も徳川選んでて、その時点で豊臣恩顧の武将がどう動くかわかってるのに石田に乗ったのがそもそもの間違いの始まり。
淀殿がいくつかあった選択肢のどれかを間違えなければワンチャン豊臣継続あったと。
千姫の件は子が出来て後継となればそれは家康の血を引く子でもあるわけで、本来ならそれで満足してたんじゃないかなぁ。
淀殿が間違えていなければ流れはこっちだったわけだし。
そもそも当時の一女性の決断で物事が動く事はないと思う、因みに高台院と家康は関ヶ原でも大阪の陣でも不和だった模様で高台院と淀の関係の方が良好だったみたいですね。
勿論子飼い時代からの縁で高台院と三成も仲が良かったそうです。
寧子殿に関しては家康と仲がいいというのではなく、選択肢として仕方ないというレベルでの個人的評価です。
それと、申し訳ない、淀殿が家康派だったという文献を読んだことがないので、どなたの著が教えていただければ幸いです。
正直、後が無くなっての命乞いで、家康の提案を蹴飛ばし続けて何を今更としか思えないお話しか知らないので。
(そこを助けない家康の非道みたいな主張の著なら読んだことあります)
私の先祖の有名人と言えば、ライオン宰相こと浜口雄幸だな。
大阪城でなく大坂城のほうがいいと思います
先祖辿ると400年以上とか、700年遡るまで有名人いないとか
それ本当に先祖かよと
秀吉もだけど秀長も子供に恵まれて無いんだよなあ
三人だけで男児は夭折してるし
秀吉と秀長は一般的に異父兄弟って話だけどこれ父親が同じでY遺伝子になんか問題あったんじゃないかって気がする
話に因れば種無し南瓜で寝取り趣味のスケベ親父だったそうな。
九条節子様は「さだこ」と読みます。
秀頼の父親は大野治長だと思う。秀吉の指示で子種貰ってるのが合理的。
男が生まれないとかじゃなく、ここまでタネ撒いても子供自体できてないと秀頼だけじゃなく石松丸も怪しい