なぜ?石川数正が徳川家を出て豊臣秀吉についた理由を徹底考察!
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- čas přidán 8. 09. 2024
- 戦国時代も現代社会の人も人の上に立つ人間は、如何にして良い人材を集めるかが大切。
特に戦国時代は自分自身の才覚以上に、どれだけ優秀な部下を集め、いざという時に活躍してもらうのかが問われました。
実際、戦国時代には『人材コレクター』ともいうべき大名が多々いましたが、それもそのはず。
良い武将を手元に置いておきたいと考えるのは、決して趣味・娯楽的な意味ではなく、自身・家のことを考えても理にかなっています。
だからこそ、合戦の後、あるいは大名が没落すると優秀で名を馳せた浪人の元にはオファーやスカウトが舞い込んだものです。
しかしながら、中には主君が存命でありながら出奔するケースも。
それが大きな存在感を放っている家臣ともなれば、さすがに戦国時代でも珍しい話ですが、そんな出奔劇として大きな衝撃をもたらしたのが石川数正です。
徳川家の重臣でありながら、豊臣秀吉の元に出奔してしまったのです。
まだまだ家康が秀吉に臣従する前の話ですから、いわば敵国への寝返り。
現代人が見ても衝撃的な出奔劇は、当事者である徳川家にとってはより一層大きな衝撃をもたらしたことでしょう。
しかし、実は石川数正の出奔劇はその確たる理由がよく分かっていません。
本能寺の変同様、結局は人の気持ちの問題ですし、書状等も残っていません。
そのため、歴史マニアの議論の題材として今日まで残りました。
そこで、今回は石川数正が豊臣秀吉に出奔した理由について、まことしやかに囁かれている説をいくつかご紹介しましょう。
~目次~
2:35 秀吉に魅入られた説
3:48 秀吉の篭絡によって出奔した説
5:16 対秀吉路線における徳川家中での立場の悪化によるもの
7:02 信康関連説
8:40 父親怨恨説
9:28 出来レース説
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脚本・監修:歴史の細道
#歴史の細道
難しいですね。どんなに忠義を尽くし、活躍しても不遇な扱いを受ければ自分をより評価してくれる所へ行くのは当然だと思いますし、現代社会では転職する人はいます。
数正の出奔についてわからないことが多かったので今回の動画は大変参考になりました。ありがとうございました。
石川数正が好きです。🎵
いい武将です。🎵
信雄の三家老の例があり、秀吉の交渉役はなりてがおらず、徳川家中全員の数正が スケープゴードにされた説が一番有力。本人も充分わかっていて汚れ役を買って出たんだよね。🎉
数正出奔が徳川臣従に大きく関わった説があるんですよねぇ
石川数正は秀吉から10万石賜っているが、1593年の死後領地は3人の子供に引き継がれている。関ヶ原は直接参戦していないが、家康の会津征伐に従い、そのまま東軍に与する東軍であったことで、所領は安堵された。
1613年大久保長安事件に連座。領地隠匿の咎を受けて三兄弟は共に改易されている。1613年大久保長安は中風で亡くなったが、死後不正蓄財を問われ長安の子供達7人は切腹させられている。石見銀山、佐渡銀山の接収役を務めていて派手な豪遊が目についていたのでしょう。本多正信の告発からとも言われている。石川三兄弟も連座して改易となると銀山接収にともなう不正蓄財に関わっていたのでしょう。10万石剥奪、島流しで済んだのは命は助けられたのは有り難いところ。寝返りはする、お金に汚いという事から考えると徳川家や取り巻きからは白い目で見られていて、何かあればやっちゃおうと思われたいたのでしょう。徳川のスパイとして秀吉に寝返ったとは考えにくい。
2つ目の説を推します。
扇子を手にする秀吉の絵は、イチローに似てる。
数正を秀吉がたら仕込めた結果に家康の下から去ったということなのかな?💫
本人以外は知りえぬ真実、まあ居づらくなったのもある、三河は頑固者が多いし。
それがために井伊直政に「こんな奴とは同席したくない」と言われる始末。(直政は新参だが忠義では負けてない自負があった)
だから松本城を築城したのはせめてもの意地、しかし嫡男康長の代で改易。
石川氏は家成、数正、丈三の家がある。
さおりさん、今回も、美人だよ!
豊臣秀吉が籠絡と石川数正が徳川家康に戻れない状態を作り出したんじゃないかな!!
山岡荘八先生の説が頭に残っています。
小牧・長久手の戦いでは勝ったものの、あくまでも小さな局地戦。 その後も冷戦状態ではあったものの、家臣の大方は主戦派が多い中で兵力差では大きく劣勢で正面衝突なら勝ち目はなく徳川家が滅亡する。
秀吉の妹・朝日姫が正室に迎えられる等の秀吉側からの譲歩策もあったものの、冷戦状態は変わらず。
本多作左衛門重次に打ち明け、そのための打開策として自らが秀吉のもとへ出奔し、家康には和睦へと向かわせた。
要は、石川数正がいわば「捨て石」となって徳川を滅亡から救った、ということですね。こういう考えも、なかなか面白いと思います。
小牧長久手の戦いの手打ちの条件として秀吉が数正の譲渡を要求。
秀吉は石川数正を家康の主家にすれば良かった。スッキリするじゃん。石川数正が150万石、家康は与力で15万石くらいで。引き抜いたら元の主君の上に添えて立場を逆転させる。ナイスアイデア!
松本城を訪ねるといつも思う。
>石川数正が150万石、家康は与力で15万石くらい → すみません。逆では?
当方、安城市では石川数正は裏切り者として有名です。
池田恒興を討ち取った人の話からしても…恩賞不足が一番の理由!?
そりゃ理由は豊臣の方が将来安泰だと思ったからだろう
その頃の実力差は圧倒的に豊臣だからな
のちに徳川が臣下になっているし
主君と臣下では天と地ほどの差がある
将来がわかっている
今の私たちの考えで考察するのは馬鹿げている
秀吉が吹聴した本能寺の変以降の出来事に比べて、公式見解だったり、通説が一定しないところはおもしろい。信長・光秀・秀吉・家康は、後の日本の方針によって評価が過小評価されたり過大評価されたりするので、その辺りも含めて独自で検証していくのが一番ですね。
秀吉は、その時代によって評価が変わった代表格。
江戸時代は、徳川将軍家の手前「豊臣」そのものがタブー視された時代。秀吉ゆかりの寺社が破壊されたり、「豊国大明神」の神号を取り消されたりしました。
明治維新になると、その反動か、明治天皇が秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、慶応4年(1868年)閏4月に京都・豊国神社の再興を布告する沙汰書が下されました。その後、大阪城や長浜市、名古屋市中村区といった秀吉ゆかりの地にも「豊国神社」が再建または建立され、日清戦争・日露戦争後は、秀吉は「農民から関白にまで上り詰めた、立身出世の鑑」「朝鮮半島に攻め込み、戦功を得た武将」として、秀吉を評価する動きが一般国民の間で益々盛んになりました。
石川数正のその後 最後はどうなったのか また家族はドしたのか 聞きたかったのに 残念
石川数正の出奔は謎が多いですね
個人的には単に秀吉有利と見たので秀吉側についた(出世のため)とおもおます。
結局お家断絶になっている!
息子の康長の代で改易されていますね。たしか「大久保長安事件」に連座しての処分。やはり、家康は石川数正を相当恨んでいたのではないでしょうか?出奔によって、徳川の兵法が秀吉に「だだ漏れ」し、三河流から甲州流に兵法を変えざるを得なかったのですから。
まあ、それによって旧武田家臣の多くが徳川直臣になって、江戸時代に大名にまでなった家(諏訪・土屋・保科・米倉・柳沢)も多くいます。
未だ2年も先の事だけど、再来年度の松潤が主役で家康を演じる戦国大河ドラマ、「どうする家康」においても、松潤家康の譜代家臣武将ながらも彼のライバルだった秀吉に鞍替えした、石川数正を演じる俳優が果たして誰が決まるのかも、気になる所だね。
主因はあるにせよ、理由を一つに絞る必要はないと思います。すべてを総合判断した結果ではないでしょうか。
秀吉との交渉役だった他家の重臣も、幾人か誅殺されてた当時の事情も要因の一つに追加したいところです。
家康との出来レースはあまり信じてませんが、一族丸ごと出奔してることから、家康がわざと見逃したのはありそうとも思ってます。
軍法を変えざるを得ないというのも、これを理由に軍法総変えを推し進めたともいえます。
攻め滅ぼした武田家の軍法へ変えるって、勝った側が負けた側の軍法を採用したってことですもんね。
最近の歴史家のあいだでは、家康と数正の結託説が多いようです。
かつての旧友さえ無視される始末。😓
HONNDA MIZUNO ISHIKAWA ・・・・俺は埋伏の毒として他家に仕えた説に一票
佐保里さん 綺麗 付き合って
👍を忘れず!
さおりさん、お久しぶりですm(__)m
いつも変わらないですね😃👍
そしてとても聞きやすいです👍👍
信康生存の頃から岡崎城勤めの武将は何十年もまったく加増されませんでしたからね
浜松の同僚だけ何度も給料上がるからそりゃあ嫌になるよ
先祖伝来の地である!お大坂の河内を秀吉から与えられたのも、い家康からはなれたげんいん!
江戸時代でも大久保一派が粛清されたりしていたので、家康の同じポストに2-3人置いて競わせたり、役割分担したりする、陰湿な人材管理手法に嫌気がさしたのでしょう。
信康のお守してた人間はそりゃあ一生息子564と言われたので、そんな主君の息子564の十字架背負って生きていくのは、厳しいんでしょ。
まぁ弟564て秀吉に臣従して、天下人の甥にごますってたら謀反の疑いかけられて、十字架背負って上洛するとんでもない神経した武将もいますがな。
まぁ、多分、恩賞不足でしょう
徳川の家臣団は、軒並み石高が
少ないです。
家康がケチなのもありますが
石高が高くなると、変にチカラをつけられるとの理由との事ですが…
果たして、真相は如何に?
単純な話で石川家成に西三河の旗頭が移ったからでは?
小牧長久手の戦い以後 秀吉に息子を人質に取られていたことも大きいのでは?
三方ヶ原の戦いの時に家康が漏らした焼き味噌を無理矢理喰わされて恨んでて寝返った説に一票!
外交担当から、信康の事件以降、数正勢力、力、やる気を❗失って‼️荒れて居る状況が秀吉に伝わる。長年の付き合いから、秀吉は残念がって、それだけ認められてたのだろう✨✨。秀吉が、家康に譲って欲しいと!щ(゜▽゜щ)と頼んだ‼️。失ぽんではなく、譲ってもらった。😃✌️😃✌️。
家康と数正とは深い絆があったと信じたい。家康の命で敵方の懐に侵入し、徳川家の為になるように動いたと思いたい。三河武士は恩賜等で寝返るなんてないと考えている。(説)です。
本能寺の変のことで数正と家康はモメたのではないか?
石川五右衛門に関係あるのでしょうかね
クガタチの刑なんてよくやりますね
結局は何がしたかったのでしょうかね?
秀吉は敵はおろか、味方大名の重臣もヘッドハントしている
今で言えばどうだろう、AppleがSamsungの副社長をヘッドハンティングする感じか、しかも結構しつこく。
数正の豊臣家に移ってからの活躍のなさを見ると、個人的には出奔する事によって主家徳川家を救おうとしたんじゃないかなあ。
後の徳川家が秀頼大阪方にやった様に、もし数正が出奔しなかったら、秀吉からの嫌がらせがエスカレートしてたと思う。
そこを、己が出奔する事で秀吉の精神的満足度を満たそうとした様に思うんだけど。
だから石川数正は嫌いや
石川数正だけでなく水野勝成さんの父親である水野忠重も
豊臣秀吉に寝返ったな
石川数正のおかげで徳川家の軍法が甲州流に変更した
武田の赤備えを採用した結果でしたね
徳川家康、軍学は太原雪斎以外からは学んでいなかったのかなと思います。
徳川家康がいかに優秀でも時代と共に変化していく戦闘スタイルについていけなくなっていた。それに危機感を抱いた石川数正が豊臣家に行くことにより、今までのやり方を強制的に変えさせたかったのかなって思う
そして、全てを甲州流軍学に変えた徳川家は強くなった
そして、小幡景憲というスパイを既に送りこんでいたから石川数正スパイ説は低いと思う
可愛いい💕
あははは!
完全にネタ切れですか?
前もこれやってましたよね。
まあ、そうなるわな。
ゲラゲラ(笑)
私は初めてなので、同じテーマを何回やってもいいんじゃないでしょうか。全員が初めからずっと見てるわけでもないので。
時代を戦国時代に限るからでしょう
ネタ切れもしますわ。
さおりちゃん❤️1番取ったよ❤️
ご報告お疲れ様です。1番を取ることにどんな意味があるのでしょうか。
czcams.com/video/DAAGKyElODU/video.html
アー出奔 出奔 シュッポンポンポンポーン