住吉大社と神功皇后の意外な関係性|小名木善行×羽賀ヒカル

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  • čas přidán 22. 12. 2023
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Komentáře • 28

  • @user-pt8eq4kt3i
    @user-pt8eq4kt3i Před 7 měsíci +4

    小名木先生の小名木節は何時聞いても講談師のようです、中々の役者でいらっしゃる😊

  • @user-pp7te7qi9p
    @user-pp7te7qi9p Před 7 měsíci +8

    素晴らしいお話をありがとうございます🍊🍎🍑🍋🌞

  • @davidcoldstar6333
    @davidcoldstar6333 Před 7 měsíci +19

    日本中に神功皇后の伝承と史跡、軌跡があるのに
    「神功皇后は存在しなかった」とか言い張る反日学者
    気に入らない人物は全て存在しなかったことにする戦後の歴史教育
    神功皇后は日本で最も重要な偉人だ

    • @user-fw5jy1zf7y
      @user-fw5jy1zf7y Před 6 měsíci

      成務天皇。
      こと、
      物部ワカタケル大王
      の后(皇后)が史実。
      ヤマトタケルは架空、捏造されたキャラクター。
      架空からは架空しか生まれませんから
      仲哀天皇も架空捏造の類い
      (但し、モデルとなった
      中津彦は居ましたが)
      住吉三神は
      神功皇后の三人の情夫(成務天皇(戦死)。仲津彦(戦死)。武内臣襲津彦王(三韓国制圧平定の最大の功労者で打出の小槌(三韓国からの年貢等の利権)を確立))

  • @user-um1so4cs3b
    @user-um1so4cs3b Před 7 měsíci +3

    勉強に成りました。

  • @tamakifujiwara5242
    @tamakifujiwara5242 Před 7 měsíci +6

    代々そこに住まう者には常識ですが、古い地図は見ておいたほうがよいですね。
    すみよっさんの西、南に下れば仁徳陵や大鳥大社の西側は、それぞれ南海トラフの浸水被害想定地です。
    摂津の大部分、元は河内湖の湖底だった地もそうですね。
    生き残った者で何度でも再建しましょう。

  • @user-bd6sf4ru8f
    @user-bd6sf4ru8f Před 2 měsíci

    応神天皇は神功皇后と住吉大神(武内宿禰)との間の子である説がありますが本当でしょうか。

  • @user-sy8gb1kh2g
    @user-sy8gb1kh2g Před 7 měsíci +7

    「すみよっさん」と言うのは、関西人の呼び方ではないですか。
    「天神さん」「えべっさん」「お稲荷さん」「石切さん」・・・

    • @user-zi4et7zi7d
      @user-zi4et7zi7d Před 7 měsíci +2

      金比羅さん、天王さん(素戔嗚)、八幡さん、なんでもさんつけますよね。

  • @user-pg8ke4wl5m
    @user-pg8ke4wl5m Před 7 měsíci +7

    色々な神社が直会が出来る様になって、住吉大社は、コミニケーション、表現力の神様だから直会があると弥栄の気が行き渡り、とてめ良いお正月🎍になりそう。
    海洋民族とオリオンの繋がりも
    神秘的な真実ですね。

  • @shougen99
    @shougen99 Před 7 měsíci +5

    「住吉さん」と「さん」付けで呼ばれるのが住吉大社ぐらいみたいなこと言われてますが、大阪ではさん付け神社多いですよ。「天神さん」「えべっさん」「生玉さん」「石切さん」等

    • @乙女座22
      @乙女座22 Před 7 měsíci

      熱田さんと地元では言います、結構地元の神社はさん付けで親しみを持って呼び習わされていますよね。
      それだけ日本人は身近に神を感じて生活していたのです。

  • @occhicchi69
    @occhicchi69 Před 7 měsíci

    子供の頃は八坂さんと呼んでました😊

  • @m_e_k_u__
    @m_e_k_u__ Před 7 měsíci +1

    西成巡った後にちんちん電車乗って住吉大社行ったのが懐かしい

  • @kamiokaasora0729
    @kamiokaasora0729 Před 7 měsíci

    トリプルアセンションによる地球の次元上昇の為に産土様と繋がり地球、自然に感謝し天命、地命、我命を意識してください

  • @user-lc7qr3yt3x
    @user-lc7qr3yt3x Před 7 měsíci

    あはは、書紀の「あるふみにいわく」のところが神功紀で一番面白いところ。彼女が神の在処を何度も聞くだろ。その度に日向のあはき原とかうち彦避け彦まつやたね、とかとぼけて、答志島とか、二転三転して、最後で彼女に正解を与えない。ここが神功紀のミソなのよ。新羅とかくまそとか応神とかは、付けたり。神の在処を問うところが本質。

  • @hiro01x4
    @hiro01x4 Před 7 měsíci

    嵐山、綺麗ですよね〜
    冬の朝だからガラガラなんですかね
    断層の絶景なんですよね
    祇王寺知りませんでした
    今度行って見ますね
    苔の上に紅葉の落ち葉風流ですね
    苔達も勢力争い頑張ってるんだろうな
    鹿王院ものすごく素敵ですね
    今年一年ありがとうございました
    良いお年をお迎え下さい

  • @user-pg8vt9yb4e
    @user-pg8vt9yb4e Před 7 měsíci +2

    神功皇后
    (じんぐうこうごう、旧字体: 神󠄀功皇后、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。なお、実在したとすれば後述の広開土王碑文、三国史記や七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などからも総合して4世紀後半頃と見ることが出来る。
    略歴
    父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天之日矛の子孫・葛城高顙媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫[1]がいる。
    仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。若井敏明著「邪馬台国の滅亡」吉川弘文館発行では仲哀天皇9年を西暦367年に比定している[要説明]。 同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。
    翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である麛坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。
    明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたが[2]、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された[3]。摂政69年目に崩御。

    気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
    息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと) - 『古事記』
    大帯比売命(おおたらしひめのみこと) - 『古事記』
    大足姫命皇后 - 『続日本後紀』
    大帯日姫 - 『日本三代実録』
    漢風諡号である「神功皇后」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
    事績
    熊襲征伐
    神功皇后
    歌川国芳画『神功皇后』
    仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。3月、天皇が紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に向かうが皇后は角鹿に留まる。同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。翌年〔仲哀天皇9年〕2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死。『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。
    仲哀天皇9年3月1日、小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行い、前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、事代主神、住吉三神などであることを確認した。しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。3月17日、皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、20日に層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲という者を討った。そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、そこを安(夜須)という。
    3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e Před 7 měsíci

      三韓征伐
      月岡芳年筆「日本史略図会 第十五代神功皇后」
      詳細は「三韓征伐」を参照
      仲哀天皇9年4月、松浦郡で誓約(うけい)を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。9月には(筑紫夜須)にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。
      10月、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。その勢いは船が山に登らんばかりだったという。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ[4]、戦わずして降服し朝貢することを誓った。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上した。これを見た高句麗・百済も朝貢を約束した。
      帰国した後の12月14日、皇后は筑紫で誉田別尊を出産した。出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。そして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。
      忍熊王との戦い
      「御誂座敷幟ノ内 神功皇后と武内大臣」
      歌川国貞画 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵[5]
      新羅を討った翌年(摂政元年)2月、皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。そして畿内への帰途についた。しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。彼らは誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。
      忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。
      彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は
      皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。武内宿禰は逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。逃げ場のなくなった忍熊王は五十狭茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。
      いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な
      忍熊王と五十狭茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。この年が摂政元年(若井敏明によると西暦368年に比定)である。
      摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。
      摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都。
      摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝。笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。
      新羅再征
      摂政5年3月7日、本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。
      摂政46年3月、斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣。斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、百済から日本への道を繋いだ。
      摂政47年4月、新羅と百済が朝貢してきた。百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、新羅に貢物を奪われたと訴えた。
      摂政49年、新羅を再征伐。将軍として派遣された荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は百済の木羅斤資(もくらこんし)・沙々奴跪(ささなこ)と共に七つの国を平定した。以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、百済から宝物をもたらした。
      摂政62年、新羅が朝貢してこないので葛城襲津彦に征伐させる。
      摂政69年、4月に崩御。

    • @skaku3835
      @skaku3835 Před 7 měsíci +1

      私も同意見です。広開土王の碑文には、確かに倭が半島を攻め上って来て、百済新羅を降伏させた、とあります。
      そして、その倭の大遠征軍を退けた(三韓は馬、弁、辰だった可能性が高いですね。)事が、好太王の一大業績だったのでしょう。
      これほどの大遠征を日本側の記録でも別の機会に求めるのは難しいですし、河内の巨大古墳の年代からも、4世紀後半~5世紀の大戦役だったと考えます。

    • @user-pg8vt9yb4e
      @user-pg8vt9yb4e Před 7 měsíci

      @@skaku3835
      古墳時代は記録がすくないので、むしろ面白いのかもしれませんね。昔は神功皇后と七支刀のことは学研マンガに載ってたんですが、今はどうなのでしょうね。仁徳天皇陵と応神天皇陵ですね。今の現代人は古代日本が半島を攻略したなどとは思いもよらないでしょうね。
      ご返信どうも^^

  • @user-zz5op2vo7k
    @user-zz5op2vo7k Před 6 měsíci

    「なので」は断定の助動詞「だ」の連体形「な」+理由や原因を表す接続助詞「ので」によって構成されるため、他の言葉と結びつく言葉です。独立した接続詞ではありません。ですから、文頭に「なので」を用いて文章を始めるのは、文法的に間違いです。だから、ですから、従ってなどの適切な言葉があります。間違った言葉遣いをする方のお話はあまり聴きたいとは思いません。ご自身の母国語を大切にされてはいかがでしょうか。