8耐の前の鈴鹿200キロレースの時、パドックにいたケニーにサインもらったのは良い思い出。ケニーは8耐迄実走行はしなかったので、鈴鹿がアップダウンの有るコースだとは思っていなかったようです。8耐も現地観戦でしたが、盛り上がりも、観戦者ももの凄かった。ヤマハファンとしては悲しい結末でした・・・。87年は逆に劇的な勝利でした。
このビデオは初めて見ました、初めて見にいったレースがこの85年8耐でした。凄く暑くて寝て起きた火脹れみたいになってましたね、お土産にかったTECH21のお土産は今何も残ってないけど、人の多さと暑さがすごかったです。
この頃の8耐が一番面白かった!
話題性じゃ8耐史上1番だったかと。また、耐久屋とスプリント勢がハッキリ分かれた年。
この85年8耐は見に行ってました。時代的に凄い盛り上がりとドラマチックな展開で今でも凄く印象に残ってます。いつだったか、とある雑誌の過去の8耐を振り返った内容の記事で、徳野は今まで85年8耐の事は言いたがらなかったがようやく、と言う前置きの後、ガードナー寄りのサスセッティングがスカスカで乗りづらくてタイムが出せなかったと言っていた。この映像で元監督が言ってたような2週間前のケガが影響したとは言ってなかったが。どちらが本当だったのか…
1235あたりでGPz750R
が出てるのは胸熱。
ライダーチェンジしてもらえず、置いてきぼりの徳野の後ろ姿が寂しかったな😅
Biggest race in the world in this era, 300,000 or more spectators !
この頃ピットロードが
速度制限無かったから
ピットインが迫力あります
徳野可愛そうだけど
あまりにもガードナーとの差がありすぎた
パートナーミスだったね(勝てたけど)
現地にいました。
#21がスローダウンしたときは、ちょうどS字からメインに移動途中でしたが、スローダウンしたのがハッキリわかりました。
冒頭のケニーのコメント、字幕は意を損なうことなく和訳されてると思います。最近の機械翻訳を手直ししたような和訳に辟易としてますが、やはり今どきのクオリティーは低いと思います。
リタイアの原因は排気バルブの破損でした。
ケニーは初めてFZRを見た時に”こんな女々しい色のバイクに乗れるか!”と言ったとか…初めての鈴鹿、初めての4スト、初めての耐久でコースレコード、スタートミスからの劇的追い上げと幕切れ、全てはケニーを中心に動いていた年でした。85年からは耐久レーサーとGPライダーの対決、ビッグスポンサーの参加、レースのスプリント化、各コンストラクターの競走激化など近代8耐のスタートとなる記念すべき大会でしたね。