伊達政宗の長男・伊達秀宗 秀吉・家康、天下の覇者の間で翻弄された運命
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- čas přidán 24. 07. 2024
- 今回の歴史じっくり紀行は、『伊達政宗の長男・伊達秀宗 秀吉・家康、天下の覇者の間で翻弄された運命』について紹介していこうと思います。
~目次~
0:00 オープニング
0:20 政宗の長子なれど
1:19 秀吉に気に入られる
3:27 異母弟 忠宗の誕生
5:04 井伊直政の娘を娶る
6:28 初代宇和島藩主となるも家臣を上意討ち
9:02 政宗との和解
11:08 政宗死す、ついで秀宗も
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脚本・監修:歴史じっくり紀行
#歴史じっくり紀行
~画像~
Tak1701d - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, commons.wikimedia.org/w/index...
663highland - 投稿者自身による著作物, CC 表示 2.5, commons.wikimedia.org/w/index... #日本史の謎 #歴史 - Zábava
「心の月」は政宗の辞世の句に有りましたね。辞世の句を寄せてくるくらいお父さんに憧れがあったのですね。
戦国の闇世の中に心の月というエゴなのか自分を押し立てて生きていく破天荒なパパから受け継いだ心の月という考え方なのか志なのかを、灯火にして何を悟ったかは気になるがな
実際に政宗が秀宗の和歌添削してる書状とか残ってるので文字通り先生みたいなもんですね
そんな政宗もへうげものでお馴染み古田織部から和歌を添削してもらった書状を大事に保管してたりします
素晴らしい動画だ。
一世が凄すぎると二世や3世の重圧は計り知れないよね
偉大な父をもつと大変ですね!
いい話です、感動しました
伊達秀宗とともに宇和島に同行したものの子孫です。
ともに同行したのは57騎+お付多数
仙台側と宇和島側で、今でいう名簿に若干文字の違い等ありますが、間違いないと思われます。
ほとんどが仙台からではなく米沢からの家臣です。
移動の際は尼崎からは順次大洲まで船で、そこから陸路(現在約60㎞)だったそうです。
現在も宇和島では各所で仙台の文化が色濃く残っており、雑煮も切り餅澄まし汁、「八つ鹿踊り」も行われています。
ちなみに幕末の伊達宗城(だて むねなり)は幕末の四賢侯と言われてますが、大元は米沢、どうしても上杉よりに…
だから幕末の伊達宗城とか宇和島で出てきたのか
秀宗のストーリーは聞いた事なかった😊
宇和島伊達家は今でも「お殿様」です。亡き祖父は、「お殿様が宇和島に帰られる」と、宇和島へ出て行ってましたね。
秀宗の怒りをしっかり受け止める政宗 とっても素敵なお話ですよね 2代目忠宗の代では 家光の御前に出る時は秀宗が忠宗の上座に座ったエピソードもありますよね 忠宗は兄の苦労を知っていたのでしょうね
父・政宗から「兄を粗略に扱うな」と何度も訓戒を受けていたのかも…。
@@user-gi1qb6vt8t さん
そうかもしれませんね
政宗が寝込んでしまった時忠宗は多くの見舞い客に丁寧に応接し 政宗が亡くなる3日前の早朝に 家光が見舞いに来た時も そつなく応じたそうです とても落ち着いた空気の読める方だったのでしょうね
司馬さんの本で読んだな山家清兵衛
この人、宇和島にうつされてよかったよな。側室から生まれた長男と正室から生まれた次男とか、ゆくゆく骨肉の争いのもとになってもおかしくなかった。兄弟の殺し合いなんて戦国時代珍しくない。現に政宗も弟を殺している。最悪の場合、家中を二分する争いの末、幕府にとり目の上のたんこぶでしかない伊達家など取り潰されていたかも…
仙台藩62万石と比較すると少なく感じるけど10万石って外様大名カーストの上位だよな。
伊達家の家督を継げなかったにもかかわらず、幼少期より豊臣家で育てられたせいか、生涯通じて秀宗の「秀」を改名しなかったのも、少しは豊臣家もしくは秀吉に思うところはあったのかもしれないな
家康の子である秀康・秀忠も「秀」の字を変えていませんからね。
@@user-gi1qb6vt8t だから、毛利秀元も毛利秀就も改名していない。
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秀康に関しては秀吉の養子だから変えなかったのかも
秀忠と弟の忠吉を合わせると「秀吉」になるのも面白い
ちなみに忠吉の吉も秀吉から貰ってる
故郷宇和島のお殿様です。山家事件が元となって建立された和霊神社は今でも地域の神社として根付いています。
一応、幕府は一大名として扱ってくれた宇和島伊達家ですが、仙台伊達家からは江戸時代を通して分家扱いされ(支藩の吉田藩は相手にもされなかった)、事あるごとに仙台藩から干渉を受けていましたが、戊辰戦争時に宇和島藩が新政府側にいた事で明治の時代は立場が逆になるんですよね。
山家公頼の上意討ちは独眼竜政宗の
49話の政宗の日常を描いた話で家臣が報告していた。
秀宗の血筋は結局伊達家には残らず、他家の養子になった男子の子孫と他家に嫁いだ女子の子孫だけ。
先に生まれたのに、生母が側室であるがために
後に生まれた弟の忠宗が生母が正室だったので
庶子として扱われたんだよね。もし、忠宗が誕生しなければ秀宗の運命変わっていたのかもしれませんね。
伊達政宗が大好き💓♥️❤️です。
武田勝頼公と徳川慶喜公が一番大好き💓♥️❤️です。🎵
青葉城と浜松城と岡崎城が一番大好き💓♥️❤️です。🎵👍
戦国武将の長男って大体不遇だなぁ
元就、信玄、信長、家康、元親の長男とか
暫く行って無い宇和島市、小うるさい、家老に、プッツンした事件は、知っては居ますけれども、弟君が、流されては来てますが、
父「なぬ!お前なんぞ勘当じゃ!何でこんな破廉恥な真似を!」
子「お父さんは僕を一度でも愛してくれた事があるんですか!人質でずっと離れて過ごして、弟に世継ぎの座は取られ、僕は愛されていたと思った事がない!」
父「……正直スマンかった」
後々
子「お父さん、こんな歌を書いたよお身体大切にしてね」
父「おぅおぅ、歌を送ってくれたのか、返歌を送ろう。あの茶器も送ろう」
4:38 政宗が大和田に宛てた11箇条の中身が知りたいです
うん、伊達政宗はやっぱり賢いんだな❗
いくら長子でもこの頃の武家では正室の産んだ男子が家督相続で優先されたから忠宗が産まれた時点で後継者の目は無くなっている
政宗の正室は父輝宗の方針で小さな勢力なら伊達の為に一生懸命働いてくれるだろうと小さな勢力田村家からもらいました。で側室の飯坂氏は家臣団でありますが田村家は滅亡して伊達家一門で再興してます。差ほど当時としても身分差がない状態で2代忠宗も安穏としてられない状態ですね。秀吉は政宗の妻達が身分も差ほどでないので、自分の側室 香の前をあえて賭けの景品にしたと思います。秀吉の時代が長ければ身分差で香の前の息子が次いでいたのかもしれません。
秀宗をはじめとして歴代宇和島藩主の官位は遠江守…。遠江と言えば浜松、浜松と言えば家康…。
「天下大乱の折には、そなたが先鋒として内府を討ち取るんじゃぞ」などと秀吉に戯れ言を言われていたかもな。
兄弟関係って、現在でも相続時など厄介のタネですよね(私みたいにビンボー人なら関係ありませんが(^^; )。
秀宗・忠宗兄弟は、秀康・秀忠兄弟(こちらも異母兄弟)とよく似ていますね! 互いが互いに遠慮するような関係…、かな。
しかし彼ら兄弟の関係がどんなものであったにしろ、少なくとも表面上は穏やかな兄弟関係であったのだから、戦国の織田信広・信長兄弟(異母兄弟)、信長・信行兄弟(同母兄弟)の対立よりは(結果として)マシであった…、のかな!? 何しろ織田兄弟の場合は合戦沙汰になり多くの血が流れ、更に信行は命を奪われていますから…。
徳川家光・忠長兄弟(同母兄弟、忠長切腹)の対立も加えると、同母兄弟の方が厄介の度合いが高く、また最後が悲惨ですね💦
宇和島を秀宗に与えられたため伊達家は実質72万石になったのか。
この宇和島藩が幕末の活躍します。また忠臣蔵の浅野内匠頭と同役だった伊予吉田藩はのちに立藩される支藩です。赤穂藩主の預け先の田村家は本家から内分分知した大名田村家。何かと歴史に関わる伊達ファミリー。ちなみにこの田村家は後に伊達騒動により改易されてしまいます。
田村は改易されていない。改易されたのは一関藩主で伊達政宗の10男の宗勝。この時に田村宗良も処罰されたけど閉門だから藩は存続している。
この宇和島藩と言っても幕末の頃には秀宗の血統は途絶え、引き継いでないけどね😅
@@yh6146
ほんとだ!ご指摘ありがとうございます😭
@@user-dg5kx3gd5p
それ言うたら結構そうですよ
@@user-rb5zw7gd6v
宇和島藩の話ならわかりますけど、どこの動画の主旨が伊達秀宗で、
この宇和島藩がって文言から始まってたのでついつい
秀宗の子孫が
浅野内匠頭と
接待役を
こうした武将が、自伝を書き残してたら、どんなに歴史を楽しくしてくれただろ!
徳川家康の自伝書なら、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗の偉人の素顔を書き記したであろう!
自伝書を書くと言う事は、敵に秘密を暴かれる恐れが有ったのか?
武士の作法として、軽視されていたのか?
偉人の伝記が残らないのは、、、
誠に残念至極!!!
毎回のことジャッドん、お面をした人の口調の溜めがきついわ。あれやめてほしか。