不遇の時代を耐えて粘り勝ちで存続した名家

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  • čas přidán 25. 07. 2024
  • 今回の歴史の細道は、『不遇の時代を耐えて粘り勝ちで存続した名家』について紹介していこうと思います。
    ~目次~
    0:00 オープニング
    0:18 小笠原流礼法を伝える小笠原氏
    2:06 領国を追われ流浪の日々を送る
    3:44 石川数正出奔のとばっちりを食うも、家康の元に舞い戻る貞慶
    5:34 その後も続く小笠原家
    6:25 もう一つの名家、鎌倉公方家とは
    8:43 一筋の血筋をつないだ公方家
    10:05 公方様が並立
    11:28 応仁の乱勃発、北条・豊臣・徳川と目まぐるしく変わる支配者
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    脚本・監修:歴史の細道
    #歴史の細道
  • Zábava

Komentáře • 18

  • @otahidetroshi7533
    @otahidetroshi7533 Před 2 lety +9

    面白い動画、解説を有難うございます。いつも楽しみつつ学ばせていただいております。

  • @user-up4rb5bq8z
    @user-up4rb5bq8z Před 2 lety +4

    いつもありがとうございます😊とてもためになります!

  • @ATHUPON
    @ATHUPON Před 2 lety +8

    小笠原秀政は家康の影武者を務めたといわれ、大阪の陣で討ち死にした際は「信濃は・・・・」と言って息絶えたらしい。

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Před 2 lety +5

    なお鎌倉公方さんより足利本家に近かった平島公方さんとこは…

  • @-msc
    @-msc Před 2 lety +7

    秀吉の怒りを買って家康のもとに逃げ込む→家康怒りながらも帰参を許す
    これって家康にしてみれば石川数正に人質の息子を持ち逃げされたんで仕方なく従った貞慶父子が
    逃げ帰ってきたことだから表向きは怒っても内心は「秀吉のところに寝返っても必ずしも良くないぞ」
    って家臣にアピールできる実例になるぞってほくそ笑んだかもな。
    その後の小笠原家の好待遇を見ればそうとしか思えない。孫の忠直の率いる越前軍大奮戦の功績が、
    評価額5万石の茶碗1個に対して、家康の娘婿の当主と孫の嫡男が戦死したとはいえ、生き残った息子に
    九州の重要拠点小倉15万石って同じ家康の孫とは言えあまりに評価に差があるからね。

  • @mukitama
    @mukitama Před 2 lety +3

    GW最中、小笠原長時のお墓が地元にあるんでチャリで大龍寺行ってきたんですが、どこにお墓があるのか分からず
    同じ場所にある山本八重の山本家(※八重の桜)のお墓を見て帰ってきましたw 住職さんに聞けばよかったな😅

    • @yoshii871
      @yoshii871 Před rokem +1

      山本八重って武田の家臣 山本勘助の子孫だね

  • @user-qo9oz6di4w
    @user-qo9oz6di4w Před 2 lety +16

    喜連川家は、5千石でも10万石格扱いとされ、旗本とは異なる。江戸初期は御三家と並ぶ大廊下が殿席だった(のちに菊の間の落ちる)。代々正式の任官ではないが、左馬頭、佐兵衛督を名乗り、五摂家及び門跡寺院並みに「御所号」を名乗ることができた(伊達家や上杉家は「屋形号」を名乗るので、正式には「殿様」ではなく「御屋形様」が正しい。)。「御所号」は武家では唯一で、高い格式を誇ったけど、その格式が災いして、暮らし向きは苦しかったとか。

  • @Gumontheroad
    @Gumontheroad Před 2 lety +1

    俺は京極家が一番ドラマチックだと思うね、不遇乗り越えてさ

  • @user-nw2gz3td1i
    @user-nw2gz3td1i Před 2 lety +2

    足利政知は義政の弟ではなく兄だったと思います

  • @ミスター仙臺シロウ

    島津家
    「宝暦治水工事」では、幕府に嫌がらせを受けながらも、工事を見事に全うさせましたもの。あの「薩摩隼人」達がよくまあ幕府と一戦交えなかったものですな。

  • @user-takeda.nobushige.
    @user-takeda.nobushige. Před 2 lety +4

    勝手に甲斐武田家断絶とか書いてる無知がいて呆れる。当家含め複数続いてます。養子等の分家含めたら更に多い。新羅三郎義光の血は脈々と続いてます。

  • @user-tj5pn2tf2y
    @user-tj5pn2tf2y Před 2 lety +3

    高家の話ですね

  • @user-lw7ps5zi9g
    @user-lw7ps5zi9g Před 2 lety +1

    さおり居なくなったのか?

  • @MR-ek7km
    @MR-ek7km Před 2 lety +3

    武田は滅亡したけど、もう武田の血を受け継いでる人って居ないの?

    • @toshis3972
      @toshis3972 Před 2 lety +8

      武田家は幕府高家として旗本の一員となり現代にもその家系を残しています。但し途中で五代将軍綱吉の側用人として名高い柳沢家から養子が入り、甲斐武田家の血筋は断絶しています(一応、武田分家の一条氏の末裔を自称していますが
      血統的には安芸武田家分家の高杉家は結構血筋がしっかりしていて幕末に高杉晋作を輩出し、こちらは現在も子孫が健在です

    • @ETeppei
      @ETeppei Před 2 lety +2

      どこまでを含めて武田というのかってのもありますが、小笠原家や南部家も武田一族ですよ。
      信玄の次男、7男や弟の血統は生き残っているはず

    • @toyo-rex4899
      @toyo-rex4899 Před 2 lety +2

      武田信玄の六男・信清が甲州征伐の後に異母姉・菊姫の夫である上杉景勝を頼って越後に落ち延び、以後上杉家臣として明治維新まで血脈を伝えています。
      米沢市の林泉寺(直江兼続夫妻の墓があることで有名)には信清以降の武田家累代の墓があります。