河井継之助、大村益次郎、秋山真之、吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟、こういう本質を見極めて、それをひたすら実現する奇人みたいなキャラを司馬遼太郎は好きなんだろうな
長岡の者です。とてもよくまとめられていますが、虎三郎(とらさぶろう)など、名前の読み方は、しっかり調べていただけると、よりコンテンツとして信頼性がもてるとおもいます。同郷の人物を取り上げていただき、ありがとうございます。感謝いたします。
河井が敗戦後、会津へ落ち延びる道中~亡くなる時まで河井に付き添った外山修造は後の阪神電鉄社長で、阪神タイガース産みの親と言われる存在になった。
司馬遼太郎の「峠」と「燃えよ剣」は、愛読書です。同じく司馬遼太郎の「坂の上の雲」は勝者の小説ですが、「峠」と「燃えよ剣」は、河井継之助と土方歳三の生き様を書いた小説。
今の世ではいなくなった、男のロマンを感じさせる魅力的な男たちの物語。ちなみに、河井継之助の故郷の長岡は、山本五十六の故郷でもあります。この二人が勝者となっていたら
今の日本はどうなっていたか興味深いですね。二人の記念館は、長岡市内に隣接しています。長岡花火でも有名な長岡は本当に愛する街です。
コメントを頂きありがとうございます。
貴殿と同じく、不肖僕も「峠」と「燃えよ剣」の愛読者です。
戊辰戦争に両名は倒れましたが、もし生き残っていたら・・・。
どんな活躍をしたのか?興味関心がつきません。
はじめまして。生まれも育ちも長岡、長岡在住の者です。
継之介を好意的に評価くださいましてありがとうございます。
継之介の武装中立の思想は現在のスイス、オーストリアの永世中立国の思想にもつながり当時としたら先鋭的斬新な思想で評価されて当然だと思います。
しかしながら戦争を起こすのはいつも一部の指導者でそこにその土地で暮らす民の考えは反映されていません。
当時の普通の庶民はあの戦争をどう思っていたのか。
長岡市民は小学校3年生くらいから長岡の歴史等を学びます。学んでいながら現在長岡の歴史、継之介を深く知っている市民がどれだけいるのか。かなり少ないのが実情です。
(講演会など開催されてもただ興味本意、有名人がくるから行ってみよう程度の市民が大半ですよ。)
明治新政府となり賊軍となった長岡が戊辰戦争時代の色を消そうと市政を行ったため旧長岡藩の遺構は中心部にはほとんど残されていません。
現在の継之介記念館ですら整備されたのは平成になってからです。
幼少の頃記念館のある所には木造の平家があり継之介縁の家とされていました。それがいつの間にか取り壊され建ったのが現在の建物、それも普通の民家としてです。
今までの長岡市政が過去の偉人、遺構を大切にしてきたと胸を張って言える状況ではないのです。
長岡を離れる際、継之介は長岡市街を焼きました。その恨みか何か、継之介の墓は傷つけられ痛ましい状態です。墓石に刻まれている名前すら読めません。
普通の民としたら生活を奪われて命からがら逃げ惑ったのですから当然といえば当然です。
継之介研究の第一人者であられた故稲川明雄先生も研究のスタート時点では継之介は好きではなかったと仰っていました。
今回のように映画になったり当時の総理が話題にしたりするとさも今まで大事にしていたように市のお偉いさん達は振る舞いますが長く長岡に住んでいる者としたら今まで保存も評価もたいしてしてこなかったのにって不満でなりません。
同じく戊辰戦争で賊軍とされた会津の皆さんとは長岡市民は違う気がします。
当時継之介が城下に暮らす民のことまで考えていたらどんな結果になったのか、たらればですが考えずにはいられません。
だからと言って継之介が当時としたら稀にみる思想を持った傑物であることはかわりませんし否定はしません。明治の世まで生きていてほしかったと思っています。
継之介が生きて新生日本にどんな貢献できたのか、理想とする国にしていくためどんな事をしたのか、できたのか。
久しぶりの偉人伝、楽しみにしてました🙏やっぱりわかりやすい💕
期待を込めて有難うございます
河井継之助先生と米百俵の話は魂が揺さぶられるくらい好きです。
曾祖父様の代まで江戸時代初期から長岡に根付いていた血の影響かな?
コメントを頂きありがとうございます。
不肖僕は長岡には講演会などで呼ばれてご縁のある地域で好きな場所です。
地元でも河井継之助の評価は未だに賛否あるようでして、こうとは断言しにくいのですが、貴殿とおなじように、不肖僕も河井継之助、小林虎三郎に想いを馳せる一人であります。
北越戊辰戦争を知らない方も多くおりますので、ぜひ動画をきっかけに、戊辰戦争に関わった人物、史実、に興味を抱く方が増えたらと思います。
返信ありがとうございます。
確かに、地元長岡にとっては長岡城奪還戦時にゲリラ戦で対応した影響やその後の新政府の悪辣な対応による影響があるから、賛否両論になるのは仕方がないと思います。
ただ、牧野家が徳川家から受けた恩義と家風を考えたら、こうなるオチは見えていたはず。
奥州列藩同盟の盟主である伊達家の逃亡は痛かった。
ただ、北海道伊達市のことを考えたら溜飲は下がりますが。
映画、峠を楽しみしています。河井継之助は知りませんでした。米百俵を勧めた方と同時代の人なのですね。
コメントありがとうございます(^^)
映画「峠」では河合継之助さんを演じるのは役所広司さんですね。これは楽しみです。米百俵の小林とは同志でしたね。意見もぶつかり合ったり色々ありましたが、真剣に人生を生きた人物たちです。
河井継之助さんと同年代といえば小栗上野介さんですね
この二人は同じ時代を生きて明治維新の前に消されたという共通点があります。
この二人が明治時代を生きていたらもっと良い時代になったと思います。
コメントありがとうございます(^^)
幕末には多くの優秀な人物が新政府軍により命を奪われました。
こういった人物が生きていたら・・・。
本当ですね、どんな時代になったのでしょうか?
きっと、明治時代の外交も巧みに行ったのではないかと思います。
働いてる同僚が河井継之助の玄孫です☺時間あったら映画見たいです☺
司馬遼太郎さんの本を読みました。知行合一という思想を持ち実行派の方ですね。新政府軍により命が危ぶまれ自ら庭で焼死したのは驚きました。山本五十六さんもかれの影響を受けたのでしょうね。
コメントありがとうございます(^^)
そうですね。知行合一(ちこうごういつ)の精神ですね。
王陽明の陽明学は山田方谷を含む多くの幕末志士たちに影響を与えましたね。
小千谷会談での土佐藩岩村精一郎も明治後に後悔したとの後日談がありますね。
峠からでも良いですが河井継之助先生に共鳴された方は是非長岡の記念館を訪問して下さい。
峠だと北越戦争の悲劇(一揆を起こした領民処罰したりあれこれ)がカットされちゃって美化されてるので、同じく河井を扱った司馬遼太郎さんの短編「英雄児」だと悪い面も含めて書いててオススメ
NHK大河での江守徹の継之助は良かったなぁ。弱藩でここまで抵抗できたのは火力装備に力を注いだから。継之助は胆力のある凄い人!
河井継之介は長岡に火を放った後 会津に向かい, 途中で命を落としました。
が、同じ長岡藩の山本帯刀ら44人が, 会津に忠誠を誓い会津迄行き, 武士の魂を捨てず最後に44人全員が斬首されます。
山本帯刀を大河ドラマにして欲しい❗️
司馬遼太郎氏の「峠」を詠んだが、継之助の清廉潔白過ぎる生き様が波乱呼ぶ幕末の中でどう現出されていくのか興味深く読んだが、果たして映画では名優・役所広司がどう演じているのか是非観たい映画だ。
初めまして
とてもわかりやすく、的確でありがたい動画です
長岡は(新潟は)父の故郷でもあり親しみを感じています
これからも動画楽しみにしています
八十里 腰(古志)抜け武士の越す峠。
古志とは今の長岡市近辺のことです(その昔は古志郡でした)。
尚、只見町にある河井継之助記念館も訪れてみてください。長岡市の記念館よりも大きく、その内部には継之助臨終の間も移築されており、立派な記念館です。なぜこんなに立派な記念館を作ったのかと、案内して頂いた方にお聞きしたらその答えは「越後と会津は兄弟だから」。
また、荼毘に付された後に残った遺灰が納められたお墓もその近くにあります。
出来れば全線再開通した只見線に乗って。
令和3年6月5日
岩村精一郎が24歳の若輩であったのは土佐藩の命を押し通すだけが役目であったと思います。
平和を探る努力の一方で、戦争へなだれ込んでいく、そこには戦争で儲ける欧米列強の狡猾な意志の働きがぬぐえません。
河井継之助が無念の思いが身につまされます。西郷隆盛をうしなったことも。
江戸城無血開城が称賛される値打ちがあるのか、疑問さえ覚えます。
今、個人的には、最後の将軍徳川慶喜には日本国の為にやるべきことがあったのではないかと思っています。
先生の締めくくりの言葉「思想哲学を持つことは、人間を強くしてまた優しくもする」人は学び続けることが必要ですね。
有難うございました。
いつも応援ありがとうございます(^^)
そうですね、江戸城無血開城もそうですが、戊辰戦争そのものは、薩摩が仕組んだものですから。本当に必要だったのか?というのは後世に生きる僕らは考えるべきだと思います。
思想哲学は生きる軸となりますよね。日本の今の教育(文科省)では思想哲学は軽視される傾向にありますから。残念です。
ですので、CZcamsで今後も論語や古典など、偉人たちが学んだ思想哲学を発信していきます。
ブラボー🙌 名講談師✌️
日本が変わる時、本当の侍達は決起した。
鹿hし、新政府軍は資金も武器も豊富でした。
戦争がもたらす、惜しい人達。
時代には、逆らえない。
長岡藩のほぼ全財産を使って、当時の洋式最新兵器のガトリング砲を購入しこれによって、新政府軍は北越戦争でたいへんな苦戦をし多大な死傷者を生じてしまったのは有名
解説ありがとうございます!
継之助はどうして陽明学者山田方谷の弟子に入ったのか知りたいです。
なぜゆえに陽明学なのか!
コメントを頂きありがとうございます。
貴殿のご質問にお答えするには長文になるので、要点のみまとめてお伝え致しますこと、ご了承ください。
動画でもお伝えしましたように、継之助は色々なところへ赴き学問に取り組みました。ですので、最終的にこの人だ、と決めたのが方谷でした。
当時、優秀な人材はこの人物はすごい、という学者(漢文、蘭学など)のもとに通い勉学に励みました。
その中に、幕末、昌平坂学問所で教えた(現在の東大とも言える場所)佐藤一斎(さとういっさい)という人物がおりました。
山田方谷は一斎先生のもとで学問に励みます。
そこには佐久間象山という豪傑も門下生として在籍し、方谷と象山は議論を繰り返しておりました(一説に方谷が7割方論破したとあります)
そんな二人が学んだのが佐藤一斎であり、この人物も超優秀な人物でした。
一斎が昌平坂学問所で教える学問は、江戸幕府が公認する朱子学です。
ですが、一斎は朱子学にとどまらず、あらゆる学問を学び、大きく影響を与えたのが陽明学でした。
一斎は公には朱子学を教える傍ら、優秀な人材には陽明学も教えました。(もちろん秘密裏に)
その影響を受けた一人が山田方谷です。
朱子学はこうあるべき論を理解することが主であったのに対して、陽明学はこうあるべき論を「行動」することを主とします。
つまり、理論だけ頭に入れることよりも(朱子学)、理論を実行することが重要である(陽明学)。という違いに幕末に志士たちは陽明学に傾倒していきます。
前置きがながくなりましたが、
河井継之助は佐久間象山のもとで学びますが、確かに凄い、しかしなんか気に食わない。そこで、同じく象山と共に佐藤一斎のもとで学んだ山田方谷という凄い人物がいる、ということを聞き、備中へ向かった。というわけです。
以上、簡潔ではありますが、このようにご理解頂ければ良いかと存じます。
不肖僕が主催する新倉塾では、そういったことも含め、質疑応答があり、CZcamsでは解説できないことなども議論しております。
ご興味がございましたらLINE@をご登録ください^^
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ご質問頂きありがとうございました。
@@niikurajuku 様
返信ありがとうございます。丁重にお答え頂きありがとうございますm(_ _)m 感謝!
アプリ登録させて頂きました。今後ともよろしくお願いします🙇
かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)「峠」で見たのかな。
長岡の河井継之助&山本五十六記念館へは 10年ほど前に来館致しました
河井継之助を演じる役者さんとして 私が1番イメージに近い方は 大河・花神での 高橋英樹さんです
演じた年齢も 亡くなった時に近いですし カッコよさでも\(^o^)/
役所さんは 今(令和)の世で 名優の御一人だと思いますが(五十六長官も演じています)
還暦を過ぎて 40前後の役は 映画・ドラマだとしても 正直???です(;^_^A
フィクション!と言ってしまえばそれだけですがww
河井継之助が 勝・福沢・小栗・渋沢・五代 等面々の様に もし渡航出来ていたら・・・・・
今の日の元 多少は変わっていたかもしれませんねww
家老職である限り 不可能だったでしょうが・・・・
これからも楽しい話 期待しています^^
コメントを頂きありがとうございます。
「河井継之助が 勝・福沢・小栗・渋沢・五代 等面々の様に もし渡航出来ていたら・・・・・
今の日の元 多少は変わっていたかもしれませんねww」
貴殿の想いと同じようなものを抱きました。
幕末から明治にかけて優秀な人材が亡くなりました。
歴史に、たら、れば論は不要とされますが、もし彼らが生きていればと考えるとまた違った近代日本の在り方があったように思います。
当時の人達の考えを今の価値観で判断することは難しいだろうが、江戸城の無血開城のように、日本に迫る欧米列強の存在を考えることもできたのだから、もう少し闘いを減らせなかったのだろうか。戊辰戦争で多くの有能な人材が亡くなったことは残念。
河井継之助については司馬遼太郎の短編「英雄児」でしか知らなかった。「英雄児」での継之助は4年後に発表した「峠」の継之助ほど評価した書き方ではなかった。なので、映画「峠」もコロナによる公開延期再延期とゴタゴタしてあまり興味がもてなかった。しかし、テレビで「今でしょの先生」が特番で思いっきり推していたのでコロナ以来久々映画館に行こうと思う。
鷹山も継之助も既存の権力者との軋轢があって当たり前と考えていたのでしょうか?
そこがすごいと思うのですが? このようなすごい人物が日本にもどこかにいるんでは?
峠も読みました、で言います。河井は執政です。これはいまでいえば首相です。彼の使命は何でしょう、長岡牧野家の家臣や
領民の生命財産を守ることです。彼が本で言う様な人なら情勢を的確に判断し、七重の腰を八重に折ってでも戦うべきではなかったのです。でも戦うと必要な焦土戦術を躊躇する等要するに政治家としても軍人としても中途半端な「江戸時代の侍」なのです。
コメントを頂きありがとうございます。
河井が北越戊辰戦争を回避するために交渉に当たった新政府の代表が「岩村精一郎」ではなくもっと理解力のある人物であったらと思うと残念でなりません。
司馬遼太郎さんの小説は個人的には好きですが、すべてにおいて著者の主観が強くありますので、不肖僕はあくまでも小説として楽しみ、出来事などは史実に関連する資料や参考文献を基にしております(^^)
某経営者団体でも、「峠」は必読書だが、良いリーダー像であり最悪なリーダー像が河井継之。
感想をいえば、一台6000両するガントリング砲x2より銃を600挺揃えたほうが、、、。1500人なら充分。そもそもガント発注した時点で戦う意志があった。
(原爆をもったら試してみたいと思う心理と同じ?)
だから敢えて中立を示し拒否されたら徹底抗戦。むしろガントリングを持っていなければ、戦争回避せざるをを得なかったはず。
徳川家に倣い無血開城する道もあったはずで恭順する意志がなかったのは、
主君の為?藩の為?武士道?いや、なんか違うでしょ?
長岡から撤退する時、町中を火の海にした事、や恨みで死後彼の墓は投石や刀傷によって字も消えた程ボロボロになったのが全てを表しているのではないか。
いずれにせよ、自分の首を差し出せば戦争回避する道もあったのが明白。
佐久間象山の弟子??
本当に英雄なのだろうか?市民の痛みが墓に象徴されている気がする。
自衛隊の日本国英雄列伝に載った戊辰戦争唯一で最高の英雄が広島藩『高間省三』であることも知っていてほしいな
旧幕軍の今町での行い💢
長岡藩他旧幕府同盟軍が長岡城奪還作戦の際、新政府軍が駐留していた今町に侵入するとき家財道具の残る家屋を焼き払いながら侵入し町を焼け野原にし、新政府軍に協力した人々を処刑した出来事のことですよね。
戦争はそこに住む庶民の暮らし、命などどちらの立場でも省みない典型です。
長岡で遊郭廃止してるから堅物みたいに思われるけど、ペリー来航後に横浜警備をさぼって品川遊郭に入り浸って謹慎させられる。映画では
どう美化するんでしょうか?書くことがなかったからか小説も悪所通いばかり。河井みたいな人物は結果が良ければ評価されるけど、結果が最悪だから
評価するのは無理がある。
中立なんて時間稼ぎと思われてもしょうがない。
長岡の町は壊され、長岡の人には憎まれたらしい、私の祖母の実家は呉服屋で焼けてしまったとバアちゃんが言ってた
長岡の人々に憎まれた最大の原因は長岡の町を焼け野原にした張本人が継之介だったからではないかと。
継之介が長岡を放棄、撤退する際、長岡の街に火を放てと継之介自身が命令したこと。
長岡藩の実質最高司令官が自分の城下を自分の手で焼け野原にしたこと。
新政府軍との戦闘で瓦礫の山となったでしょうが町にとどめを刺したのが継之介だったこと。
撤退戦の定石とはいえ、火を放つなど当時の城下の人々はさぞ悔しく激怒したことでしょう。
お婆様のご実家は城下の中心に近い所にあったのでしょうね。呉服町あたりでしょうか。
さぞ悔しくお辛い思いをしたと推察致します。
あれ程優れた時勢の分析、財政軍備の周到な準備をしておきながら、一番大事な官軍との交渉相手を選ばす、あほの前線指揮官岩村と交渉して軽くあしらわれ、戦争するしかなくなってしまった。勝海舟、坂本龍馬とは大違い、なぜ交渉相手を選ばなかったのか?本音は、最初から戦争したかったからでは。藩士、領民にしたら、いい迷惑。英傑じゃない。
河井継之助は、相当の遊び人だったと聞いております。また、堅物だったとも。記念館に行ってきました。長岡でもいまだに肯定派と否定派がいると館長の話がありました。