They are the materials to read aloud.
日本語音読用マテリアルです。
"Takasebune" is a short story by the Japanese writer Mori Ōgai, who is considered to be one of the most important figures in modern Japanese literature. It is one of the author's best-known works. The plot concerns a boat that carried criminals from Kyoto to Osaka during the Edo period.
Longer video: czcams.com/video/SKiV9vPTPqQ/video.html
Playlist：czcams.com/play/PLJov1NnDE_N92DqFGbeZK76SK-IqHxHra.html&si=MBipG2X12PDx6yqI
スクリプトーーーーーーーーーーー
　京都を南北に走る高瀬川を、その夜も、小さい舟がゆっくりと下っていました。京都で島流しを言い渡された罪人を大阪へ送る舟です。
　その日の夕方高瀬舟に乗ったのは、喜助という三十歳ぐらいの瘦せた男でした。役人、庄兵衛は、この男が弟を殺したとだけ聞いていました。
　静かな夜でした。喜助は黙って月を見ていました。庄兵衛は、この男は普通の罪人とは違うと感じました。よく見ると、喜助の顔には、悲しみも後悔もありません。旅行でもしているかのように楽しそうなのです。もし弟がひどい悪人だったとしても、その手で家族を殺して、こんなに楽しそうにできるでしょうか。頭がおかしくなったようにも見えません。庄兵衛は我慢できなくなって聞きました。
「喜助、何を考えている？ いや、私が今まで大阪へ送った罪人はみんな、悲しそうにしていたのだが、おまえは楽しそうに見える。島流しが嫌ではないのか」
　庄兵衛がそう言うと、喜助はニッコリ笑いました。
「お気遣いありがとうございます。確かに島流しにされるのは、悲しいことかもしれません。でもそう感じるのは、それまでいい暮らしをしてきた人でしょう。島の暮らしは大変かもしれませんが、私が今まで経験したことよりは、ずっと楽なはずです。私は今まで、自分が居てもいい場所がありませんでした。今はその島へ行けと、そこに居てもいいと言われているんです。ありがたいことです。それに、こうして200文ももらいました」
　喜助はそういって、着物の腹のところを大事そうに触りました。島流しの罪人は生活費として200文もらえるのです。
「恥ずかしいことですが、私は今日まで、こんな大金を持ったことがありませんでした。給料は安かったし、もらってもそのまま借金を返しに行って、また借りるだけでした。仕事を見つけるのも大変ですから、給料が安くても雇ってくれれば一生懸命働きました。食べ物が買えない時もよくありました。でも牢屋に入ってからは、働かなくても御飯がもらえました。嬉しかった。しかも牢屋を出るとき、こうして、生まれて初めて自由に使えるお金をもらったんです。島でどんな仕事ができるかわかりませんが、このお金で何か新しいことをやってみようと思っています。だから今、とても楽しいんです」
　庄兵衛は「うん、そうか」としか言えませんでした。
　庄兵衛には妻と四人の子どもがいます。給料は悪くないですが、妻は裕福な商人の娘で、節約ができないから、ときどき夫に黙って、実家から金をもらっていました。庄兵衛はそれに気が付くと、いつも嫌な気持ちになりました。いくら給料が上がっても、自分が自由に使える金はありまません。もらった金を右から左へ渡すだけだという点では、庄兵衛は喜助と同じです。
　喜助が200文もらって喜ぶ気持ちはわかります。でも喜助がそれで満足しているのが、庄兵衛には不思議でした。
　庄兵衛は、今までほとんど満足したことがありません。仕事を探さなくてもいいし、金貸しに金を借りる必要もない。喜助と比べれば、自分のほうがずっと幸せなはずです。でも少しも満足していません。
　人は誰でも病気になったら、健康になりたいと思でしょう。健康でも金がなかったら、金が欲しいと思う。金があっても全然足りないと思う。もっともっと貯金しなければならないと思う。ほとんどの人は、どんな状況でも満足できません。人の欲望には限りがない、だから苦しいのです。
　でも今、庄兵衛の目の前に、自分の欲望に限りをつけた男がいます。人並みの生活に満足できない自分と、人並み以下のことにも感謝し満足する男。自分とこの男の間には、何か決定的な違いがあると感じました。
「喜助さん」と庄兵衛は思わず「さん」を付けて呼びました。喜助が不思議そうな顔で庄兵衛を見ましたが、庄兵衛はかまわず続けました。
「あんたは弟を殺したから島流しになったと聞いた。どうして殺した？　事情を話してくれないか」
「わかりました」
　喜助は小さい声で話し始めました。
「私たちは、まだ小さい頃に両親を病気で亡くしました。はじめは二人で便利屋のようなことをして暮らしました。大人になってからは、できるだけ弟と一緒に働ける仕事を探しました。でも今年の初めに、弟が病気になって働けなくなってしまったんです。弟はいつも『兄さん一人に働かせて、ごめん』と謝っていました。
　あの日、家へ帰ると弟の布団が血だらけになっていました。近づいて見ると弟の首に剃刀が刺さっていました。息をするたびにゴボゴボと血が絡んで、苦しそうでした。
『自分で喉を切った』と弟は言いました。『私はもう治らないから、早く死んで、兄さんを楽にしたかった。でも、ちょっと失敗した。兄さん、この剃刀を抜いてくれ。そうしたら、すぐ死ねるから。早く死なせてくれ、兄さん』
　私は迷いました。でも、弟の目が『早くしろ、早くしろ』と言っているようでした。私は、弟が望むとおりにしてあげようと思いました。それで、弟の首から剃刀を抜きました。
　そのとき、『あっ』という声が聞こえました。私がいないときに弟に薬を飲ませてくれるように頼んでいた、近所のお婆さんが、慌てて走って行くのが見えました。
　それから私は、近所の男たちが私を捕まえに来るまでずっと、もう息をしていない弟の顔を見ていました。安心したような、穏やかな顔でした」
　喜助は自分の膝を見ながらそう言って、黙りました。
　庄兵衛は混乱しました。これは、人殺しなのか。弟は自分で喉に剃刀を刺した。それを抜いてくれと頼まれて、喜助は抜いた。もう助からない弟を、楽にしてやった。それが、罪と言えるのだろうか。
　考えてもわかりません。これはもう、お奉行様の判断を信じるしかないと、庄兵衛は思いました。でも、なにか納得できないものを感じました。
　沈黙の二人を乗せた高瀬舟は、静かに黒い川の上を滑ってきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーおわり